July 22, 2012

図書館が守るのは資料と利用者です

 『図書館戦争』シリーズとの付き合いも、6年ちかくになりますね。

 ライトノベルの勢いで愉快に物語が展開する点は面白いと思っています。

 専門家は確かに「女子供が喜んでいる」ようなものに口をはさむのは野暮ですし、「素人をいじる」のも考えものです。

 でも、ちょっと待った。

 「また、ですか、ひげジイ。」

 だから、ここは「ダーウィンが来たあ〜!」じゃないんだってば。それに「来たあ〜!」って織田裕二っぽいなあ。

 気を取り直して、真面目に批評をしますと、今回の映画で問題点がより明確になりました。

 「図書館の自由に関する宣言」では、図書館は「資料」と「利用者」を守っています。
 ですから、図書館は「作品」「表現」、さらには「作者」までも守っていませんし、少なくとも「図書館の自由に関する宣言」で解釈する範囲内であれば「作品」も「表現」も、「作者」も守るはずはありません。

 作品の中で、砂川一騎の「一刀両断レビュー」の批評があまり具体的なものではありませんでしたが、「図書館職員が作品の批評をするのは現場の図書館職員はしない」という意見がありました。
 たしかに図書館職員は著作の文学的な価値、歴史的な価値を判定して、社会的な評価はしません。しかしながら、資料としての紹介、お勧め、明らかな誤謬の指摘はします。

 むしろ、「表現」を保護、守っているのは「著作権法」であり、しいては「作者=著作者」の人格権、「作品の文化的な価値」までも守っています。
 どちらかといえば、図書館は「作者=著作者」の権利、財産権を守っていません。無料で著作物である作品を利用者に貸しているので、購入してもらえたら作者=著作者のところに入ってくる収入を結果的には奪っているから、公共貸与権を創設してほしいと作者側から要望されるわけです。
 図書館は、著作者や著作権者の排他的独占権である著作権を「制限」して、営利を目的としない「公正な利用」の範囲で、閲覧や貸出を認めてもらっているわけです。

 『図書館戦争』が文庫化される前に、どれだけ公立図書館で借りられていたでしょうか?
 もし図書館で閲覧・貸出禁止にして、買って読んでくださいとしたならば、著作者である作者に著作権料が入ってきたことでしょう。
 でも、逆に図書館で無料で貸出をしているから、利用者は関心を持って、映画を観に行き、関連グッズ、DVDやブルーレイディスクを買うわけで、図書館での無料貸出が一方的に著作者の権利を侵害しているわけではありません。
 ここは『図書館戦争』シリーズが根本的に抱えている重大な問題で、図書館関係者だけでなく、読者、映画を観た人が一様に感じている「設定の無理」なんです。

 それから「検閲」という行為が、良化隊による書店での「悪書狩り」という形で表現されることに違和感を感じます。
 「検閲」は出版される前に権力側が内容を吟味、つまりチェックして、発禁処分にするなどの行為をすることで、静かに目に見えないところでヒタヒタと行われています。でも、こうした秘密裏の検閲が行われるのは、政権が安定しているときで、政権が代わって、急激な政策変更が起きれば、「悪書狩り」が起きるのです。
 「検閲」が「悪書狩り」になる過程をもう少し丁寧に書けているならば、荒唐無稽の話も現実味を持って受け入れられたでしょう。

 それからそれから、笠原郁と堂上の出会いのエピソードで「検閲=悪書狩り」に対抗するために、「見計らい」する場面があります。見計らいは、通常、書店などの納入者が図書館に出向いて、本を並べて、図書館職員が見て購入を決めることで、図書隊(若き日の堂上)が書店に出向いて買い取ることが「見計らい」と言えるか、どうか、難しいところです。図書館職員が出向いて資料を買い取ることも「見計らい」ですけどね、「検閲」という強大な行為に「見計らい」で対抗するとは、象に向かっていくハリネズミのようなもの。「見計らい」の意味づけがあれば、あのエピソードが生き生きしたと思います。

Posted by falcon at 11:36:43 | from category: Main | TrackBacks
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