May 18, 2009

学校図書館って、「玩具」だったのか

 最近、やっとわかってきた。人間の理解に限界があることを。
 人間は自分の立場を超えて、相手の気持ちになることなんて、どんなに科学が進歩しても、社会が発展しても、不老不死が不可能なくらいに無理である。あくまでも、自分という殻の中に閉じこもりながらでしか、物事を考えられない。

 学校図書館の話をしていると、「自由読書」の話題が出てくる。要するに、学校の勉強を離れて、読書をすることらしいのだけれども、学校図書館で行う読書は、本質的には学校教育の一環であるから、勉強を離れて自由に読書をさせることは全くありえないことになる。反対意見を突き付けるのを避けて、一歩譲歩すれば、自由読書を主張する人は、「強いて勉める」勉強ではなく、気持を開放して、読書に親しむのであって、学校教育の一環で読書をさせるのであると言いたいのかもしれないが、どちらにしても、学校教育を否定しようとする考え方が見え隠れしている。学校教育を否定するならば、学校図書館はありえない。

 学校図書館をメディアセンター化するという主張もある。「本の館」ではなく、さまざまな資料を扱えるようにしたいという考えからだけれども、「メディア」の定義があいまいで、誤解を生みやすい。一般には「メディア=報道などのマス・メディア」と考えられているので、「旧態依然とした」と揶揄される図書などもメディアですと、いくら説明しても、ますます誤解を深める危険性がある。やはり、学校図書館は学校図書館であって、何物にも代えがたいと思っていた方が間違いないと思う。その理解の中で、学校図書館が図書や雑誌、新聞だけでなく、インターネットなどの情報も活用しますというのであれば、問題ないと思う。それにしても、日本の学校図書館は、雑誌も新聞も少ない。フランスの学校図書館は雑誌も新聞も、日本と比べるとはるかに多い。日本の学校図書館はインターネットに飛びつく前に、雑誌と新聞の整備のほうが必要だと思う。

 それで、最初の話に戻るけど、学校図書館に関わろうと思っている人の多くが、学校図書館を自分なりに解釈して、自分の立場を守りながら、いじりまわす「玩具」のように考えている。
 正直言って、日本の学校図書館は、素人でもいじりまわせるくらい、ガードが緩い。学校図書館法もあり、制度が整備されているにもかかわらず、専門家以外の人間でも、口出せるお粗末な状況にある。巨大で恐ろしい素人集団の前に、専門家が成す術もなく、立ちすくむというのが実情だろう。素人集団を気遣う専門家すらいる。
 市民が参加する社会というのは望ましいことだけれども、本質を歪めてまでも市民の参加を許すのは問題である。
 専門家は、意味もなく、自分を卑下することなく、素人に十分な説明ができるように努力をしなければならない。たとえ、素人が自分の立場からでしか物事を考えられないのを承知していても、努力を惜しむことなく続ける必要がある。

Posted by falcon at 12:11:53 | from category: Main | TrackBacks
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