May 21, 2008

たしかにね、熊殺し

『図書館戦争』への批評に対して厳しいコメントをいただきました。
 「熊退治」の件では、揚げ足とられますね。
 たしかに、小説でも、アニメでも、「作品内の現実」では熊は殺していませんね。あれは先輩のからかいにすぎなかった。
 ですが、私は熊にまつわる話を捏造して、作品を批判しているのではありません。「熊殺し」という異名を主人公はいただくし、奥多摩で熊に出会ったら、殺してしまう(郁は熊を殺していないのは重々承知)という話は、いかがなものかなあと思っています。
 作品擁護者からの反論として、「あれはフィクションだから、目くじら立てるのはおかしい」「まるで環境保護団体のように、偽善者ぶるな!」というのも当然のごとく出てくるでしょう。それを言い続けても、話し合いは平行線に終わりますので、一応、反論は想定してブログに書いたことは認めてください。

 Falconは、立川で育ったので、奥多摩へは何度も行きました。中学の時に友人たちと奥多摩の山々を登った、ほのぼのとした思い出があります。その思い出を汚したなどと、作品を毛頭非難しません。思い出を共有することは、簡単にできないことですから。
 山で出会った動物が人間を見つめ返す目を思い出すと、自然破壊と戦争を繰り返す罪業の深さを思わずにはいられません。

 ちなみに私は作品の問題点を批判しますが、作品が嫌いというわけではないのですよ。本当に嫌いだったら、興味を持つはずがないし、生理的に受け付けないでしょう。白状しますが、『ストーリーセラー』(小説新潮5月号別冊)を読みました。正直、残念としか言いようありません。ここまで自分をさらけ出すのかと、複雑な心境になりました。これは読んだけど、気味が悪すぎて、泣く気にもなれなかった。ラブ米を売りにしている有川さんの痛々しい面を知ることになりました。
 ある人が「ラノベごときを批判するとは、大人げないし、幼稚だ」と、私の意見を批判しましたが、「ラノベごとき」という見方のほうが作品を見下げていませんか。私はラノベと考えずに、読んでいました。純文学とか、児童文学とか、ライトノベルとか、ケータイ小説とか、区分けすることなく、一つの文学作品として評価します。

Posted by falcon at 13:45:48 | from category: Main | TrackBacks
Comments

文学部の大学生:

始めまして、ネットをめぐっていたらこの記事へたどり着きました。そして少しばかり時間のたってしまった記事にコメントすることをお許しください。

少しだけ、思ったことがあったので書き込ませていただいています。
まず、前提みたいなことをお話させていただきますと、私はライトノベルという世界で「本読み」になりました。今も大好きで、恐らくラノベ擁護派の人間だと思います。そして有川浩さんのファンです。ただ、『図書館戦争』には自分の中で「あれ?」と思うところがあり、以降の巻はまだ読んでいません。

さて、私がこの記事を読んで思ったことですが、それは最後の『私はラノベと考えずに、読んでいました。純文学とか、児童文学とか、ライトノベルとか、ケータイ小説とか、区分けすることなく、一つの文学作品として評価します。 』という部分です。
大学生になり、様々な人と小説の話をするようになり、最近思うことがあります。果たしてライトノベルは文学なのでしょうか?(『図書館戦争』がラノベなのかどうか、というのはここでは置いておきます)

『区分けすることなく』というのが、「どの程度まで『区分け』しないのか」ということによっても、話は違ってくるのですが、それでも今の私にとってそれらを少しも「区分け」しないのは違うのではないのかと思い始めています。(観念的で分かりづらかったら申し訳ありません)
もう少し具体的に説明させてもらえば、ケータイ小説を文学的に見てしまえば価値なんてないのかもしれません。しかし、「ケータイ小説」という区分けの中で見れば、そこには個別に出来不出来の評価があり、それらに共感する女子学生がいるのです。そこに価値がない、なんてことはないはずです。ライトノベルにも言えます。「文学」なんていうトップダウンの価値観を押し付けるから価値がないように見えてしまうのです。現に私の周りにはライトノベルで育った読者がいわゆる「純文学」を読んでいる姿があります。そこに価値はないのでしょうか、あるいは「文学作品」として評価しなくてはならない必然性はあるのでしょうか。

そこで話は立ち返って『図書館戦争』です。「文学的」に見れば、郁が熊殺しなのは首をひねる行為なのかもしれません。ですが、これを「ライトノベル的」に見たとき、それは別に首をひねる必要はないように思います。私は小説とは「象徴の技術」だと考えています。つまり、郁があの場面で熊を撃退してしまうのは「郁という人物の象徴」ではないのでしょうか。そうした「分かりやすさ」「記号性」といったものは、決して否定されるものではなくライトノベルというひとつの世界の長所なのではないでしょうか。これは、「文学的に作品を評価」してしまっては得られない考え方なのではないかと思うのです。
「ライトノベルは文芸であって文学ではない」「ライトノベルにはライトノベルの評価を」というのが、私の最近の考えです。ただ、この考えに至ってからまだ日は浅く、しかもまだまだ悩んでいる部分は多いためこれから180度意見を変えることもあるとは思います。ただ、日常的にいろいろ考えている上ではこの意見が100%間違い、ということにはならないと確信しています。

どうやら筆者の方は大学で先生をしていらっしゃるようなので、「ライトノベルは文学なのか?」このことについてどう思うか、よろしければ意見を伺いたいと思いました。長文、失礼いたしました。

(補足:『図書館戦争』をライトノベル的に捉える以上、筆者の方の言っているように有川さんが図書館の扱いをフィクションとして貫かなかったことについては、私もとても疑問を感じていました。図書館については大学の先生のような深い知識は持ち合わせていませんが、それでもそうしたことを疑問視している人がいて、とても共感しました。世間的にはかなりウケがよかったので、友人に『図書館戦争』を痛烈に批判した身としては、とてもびくびくしていましたので(笑)
(August 19, 2008 23:06:05)

司書実務者:

はじめまして。
筆者は○○○で教鞭を執られている先生とお伺いしております。
ご本人さまのお嘆きもかくあることと言いますか、「司書」の認識というものは、一定の知識層以外には一般的に大変に反応薄いものがあるというのが現状だと思います。(高校生にもなりますと一部優秀な学校司書の努力で、図書委員との活動を経て「職業」として正確な認識を深める場合もありますが)

一作家さんの創作活動において「表現の自由」を中心に図書館界を舞台にした楽しい作品が大きく評価を受けたこの数年、私自身大変興味深く慎重に受け止めてきました。子供の頃熱心に読んだ冒険小説が、今現在読んだ場合にそこまで入り込めないというようなものを感じる歳ですが。

話は戻りますが、図書館界・司書というものがどれほどの評価を世間から受けているか。

身近な有資格者は周囲に「司書」と言うと「それは司法書士のことか?」と聞かれることがあるといいます。聞き間違いであるか、あるいはあからさまな職業差別か疑う場合も多々あるようです。
「司書」はそこまで「名前の通る資格ではない」という現状を認識しなければならないでしょう。
「司書」という資格で生涯にわたる業務に就ける若者がいったいどれだけいるかというのが現状です。世間は敏感に感じ取っているようです。
そこで一作品のお持ちになった問題意識のなかでの私たち「司書」「図書館業務」への認識が「正確ではない・不快である」と言うよりも、専門職として作品にあたり感じる「ここが違うという違和感」をこそ私たちは大事にすべきではないでしょうか。
もしフィクションとして貫かれていたらそこはまたどうかとも思います。かえって「問題意識もなく遊び半分に首をつっこむか」とさらに激しい反応が返ることも容易に想像されます。
一人一人の司書の能力差・学校を離れ実践として飛び込む組織内での司書の立ち位置(企業図書館・学校司書など)・資格習得後送り出した司書に対してのバックアップ体制(恵まれた職場環境にいない司書への学習機会の充実)。われわれのやるべき事は山ほどあります。筆者はその一端を担っておられます。

「世間を納得させるだけの仕事をやれる司書」「図書館」というものがいなければ「司書」「図書館業務」は認識されないのです。
残念ながら現在は大変限られた恵まれた職場でしかそれは実現できていない。
そういった現状を認識しながら、「司書」という単語にあぐらをかき理解の不足を嗤うより、今もって世間の認識を変えるに至らない怠慢を、私たちは反省すべきなのではないでしょうか。
(August 31, 2008 17:21:41)
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