November 04, 2007

漱石先生

 昨日来、漱石先生のことが頭にこびりついて離れないのです。

 漱石は根っからの東京人といえます。江戸っ子というには、無理があるというものよ、漱石は、今で言えば新宿区早稲田の生まれ、てなことは、山の手のお坊ちゃま。いきがって見せますが、どことなく、気恥ずかしさが漂ってしまう山の手の気質がある。幼い頃、里子に出されて、新宿の太宗寺近くの塩原家に引き取られました。太宗寺といえば、現在の新宿二丁目のあたり、ゲイのお兄さんたちが闊歩する界隈です。昔は青線があったあたりです。

 夏目漱石、金之助は、意外と容姿に拘っていて、健康に気を使っていました。その辺が現代人の健康志向に通じます。幼い頃、疱瘡に罹り、顔にあばたが残ってしまい、それが嫌で、大人になってから写真に修正を加えていました。かつて千円札に描かれた肖像画は、修正後の写真に基づいています。イメージ戦略に極めて気を使っているのです。胃弱で、最後は胃潰瘍で、この世を去った漱石は、胃腸病の本を読み漁っていたようです。健康器具にも手を出している。今だったら、昼間のみのさんの番組と『ためしてガッテン』をみて、健康法に凝っていたに違いない。
 夏目漱石の家系は、美男子が多かったようで、漱石が学生時代に亡くなり、英文の弁論大会で朗読した「兄の死」に描かれた、長兄・大助は特に美男子で、学生時代、付け文を、それも同性からもらっていたといわれています(この時代は、BLは当たり前)。漱石は、この兄にコンプレックスを抱くとともに、深く敬愛していました。漱石だって、修正すれば、基が悪くないので、かなりの美男子です。『それから』の主人公が「代助」なのは、もしかすると亡くなった兄の姿を思い浮かべながら書いたからなのかもしれません。
 ところが、背は低かった。158cmくらいです。若い頃の体重が53?ですから、中肉でしたが、背の低いことがイギリスでの悲惨な体験を増幅させたといえます。

 外出着にもこだわりがあり、小説の登場人物の身につけているものを見ていると、明治時代のメンズファッションが語れるくらいです。

 『彼岸過迄』では、主人公・須永市蔵が、許嫁の千代子を奪われるのでないかと猜疑をめぐらし、洋行帰りの青年・高木に激しい嫉妬を感じることを吐露します。嫉妬の思いに捕らわれると、結局、誰を恨んでいるのか分からなくなる。日本文学史上、これほど男の嫉妬を執拗に描いた作品は類を見ないと思います。最初、読んだときは、須永が漱石自身と思っていました。何しろ、恵まれた生活ができるのに、どこか物足らなさを感じて、さらに劣等感にさいなまれるのは漱石自身しかないと思うからです。しかし、読み直すと、須永が鎌倉の海で出会ったモボ(モダンボーイのこと、ホモじゃないよ!)高木にも漱石自身を投影しているかもしれないと思います。イギリスに留学して意気揚揚と日本に戻った漱石の理想像が高木です。その高木の存在に、漱石の化身・須永が苦しみ悩むのです。
 『行人』では、話がもっと複雑です。若い弟が兄嫁に手を出すのではないかという妄想から生みでた猜疑心が兄・一郎を苦しめて、その弟・二郎も兄を思いつつ苦しむ。しかも中流階級の家ですから、世間体だけは保つ。緊迫した息詰るようなストーリーです。とても明治時代の小説とは思えない展開。これは、漱石自身が、身持ちの悪い兄の、嫁・登世に思いを寄せていたことに着想を得たといわれています。

 意外に、お茶目なチョイ悪オヤジの漱石です。
 若い後輩たちに慕われた漱石です。それなりに魅力があります。

Posted by falcon at 18:45:07 | from category: Main | TrackBacks
Comments
No comments yet
:

:

Trackbacks