February 24, 2008

郷愁の小さな書店

 Falconは、新宿で生まれて、立川で育った。
 先日、Blogに書いた田口久美子さんの本に、「皆さんには懐かしい小さな書店がありますか。」(文庫版p.74-75)という問いかけがある。
 Falconにも、いくつかの思い出の書店がある。
 まず、住んでいた地域の商店街に書店があった。ご夫婦でされている書店で、入口近くでおじさんとおばさんが交互にレジを担当していた。今から思えば、本当に小さい書店で、品揃えは良くなかったと思う。でも、出版点数の少ない時代は読者にとってはそれなりに満足できた。
 立川市は都立図書館があったため、日本の公共図書館運動の発祥となった日野市にくらべて、市立図書館が充実しなかった。図書館として、諏訪神社の近くにあった柴崎公民館の図書室があったことしか、思い出せない。夏休みに自転車で行ったことを思い出す。かすかな記憶に五日市街道沿いから少し道に入った砂川支所にも、図書室があったと思う。同じように都立図書館があった八王子市、青梅市も図書館行政は、三多摩の他市に比べ、立ち遅れていた。
 図書館の代わりに、立川は書店が充実していたと言える。立川駅北口には○□堂書店という小さな書店があった。2つの細長い通路の両側に本がびっしりと並んでいた。店員のオジサンはあまり愛想のいい人では無かった。笑った顔を見たことが無い。他にもレジに何人か座っていたけれど、活気があって、優しい、丁寧な対応をされた覚えは無い。でも、本が買えることに満足した。
 立川駅南口の商店街を真っ直ぐ行くと、オリオン書房があった。今は、立川駅周辺に5店舗ほどある大書店であるが、当時は学習参考書や雑誌をメインにしていた割と大きな書店だった。
 そのうちに第一デパートにワンフロアを全部書店にした、国立の東西書店と並ぶ規模の鉄生堂書店ができて、本に飢えた読者たちは潤った。鉄生堂書店はフロム(中部デパート)にも店舗があった。
 高島屋にも書店があったと思う。

 今はもうないが、三鷹駅近くに、五線譜をデザインしたカバーにしてくれた書店があった。あの書店も忘れ難い。

 やがて、立川駅に駅ビルが誕生して、オリオン書房が開店して、立川の書店地図が一転する。
 図書館から学ぶことも多かったが、書店から学ぶことも多かった。

 あらためて、皆さんには懐かしい小さい書店がありますか。

19:25:40 | falcon | comments(0) | TrackBacks

本物の人骨

 この前の記事で、ある特定の国が本物の人骨を不法にも売っているようなことを書いてしまったので、誤解が無いようにしておきたい。不法にも売買用の人骨を作ることは、ありえないと思う。
 しかしながら、どういうイキサツで、本物の人骨が売られているのか判らないが、本物の人骨は売られている。

 不確かな情報だが、水葬を行う国で、河から流れてきた遺体を採取して、人骨をつくるという話を聴いたことがある。この場合、痛みがひどく、病気や怪我で命を落とした遺体かもしれないため、望ましい状態の良い遺体が入手できない。一時、内戦が続く地域の国で、殺された遺体を解体して、人骨として売っていたという話を聞いたことがある。あくまでも伝聞に過ぎないので、信憑性が全く無い。日本で入手できる医学用の人骨は、本人の同意、遺族の同意を得た上で、作成されたものであろう。
 だが、人骨は語らない。

12:05:25 | falcon | comments(0) | TrackBacks

アウト・オブ・カースト

 Falconが沖縄にいた頃、もう十年近く前、ある人の紹介で、ジャーナリストの小倉清子さんのお話を聴いたことがある。これは、非常に衝撃的だった。小倉さんはネパールを中心に取材を続けている人だ。小倉さんのネパール・レポートは大変興味深い。
 Falconが聴いた話は、ネパールの「アウト・オブ・カースト」の少女たちをめぐる問題だった。
 ネパールはインドの北に位置したヒマラヤ山系に囲まれた国で、トレッキングを楽しむために、あるいは仏教の精神世界を知りたくて、訪れる日本人観光客が多い。以前はモロッコと並ぶヒッピーの天国だった。今でもそうか!?
 インドはどちらかといえばヒンドゥ教の国だが、ネパールはチベットから伝わった仏教の国だ。社会はインドの強い影響を受けて、カースト制が根強く残っている。日本では「カースト制」というと、地理や世界史の教科書に4つの身分で構成されると説明されているが、さらに複雑な身分体系になっているらしい。職業別にも身分が分かれていて、売春婦の中にもカースト制がある。「身分」がある人は社会集団で一定レベルの生活が保障されているが、「アウト・オブ・カースト:身分外の人たち」も存在する。いわゆる「不可触民(指定カースト)」である。他の身分の人たちからは、近づくことすら避けられている人たちで、ゴミ・汚わいの回収や死体の処理、農繁期の重労働など他の身分の人がやらない仕事をさせられている、賃金の保証も無い、差別を受けている人たちだ。
 これはインド世界に限ったことではない。日本には中世に「間人(もうと)」という、働く手段も居住も無い人たちがいた。ある意味、束縛の無い「自由」だ。「自由」であるが、この自由はコワイ!(『O嬢の物語』の最初のエピソードを思い出して欲しい。あれは単なるSMの物語はではなく、支配と自由を象徴的に描く作品だ)実は奴隷というのは、確かに劣悪な労働環境であっても、働く手段と居住が認められている。自由人に憧れるのは、恵まれすぎていることの我がままである。
 今は少しは改善されたと思うが、アウト・オブ・カーストの家族に生まれた少女たちが、斡旋業者によって、アジア最大の売春タウンのムンバイ(かつてのボンベイ)へ売られている現実を、小倉さんの話で知った。以前はインドの不可触民の少女たちが売られたそうだが、今は取締りが厳しく、斡旋業者がネパールの山岳民族のアウト・オブ・カーストの少女まで手を伸ばしてきたわけだ。まだ、初潮も迎えていない10歳以下の少女たちも売られているという。当然、ムンバイの売春街ではエイズが蔓延して、少女たちは劣悪な状況で人生を終える。話を伺ったときは、激しいショックと義憤(←軽軽しく使いたくない)で心が満たされた。
 ネパール政府も、斡旋業者に注意するように呼びかけているが、家族には、貧困なためラジオもテレビも無い。また、オーラル・コミュニケーション、噂話や口伝えが重視されている社会なので、いわゆる報道メディアは信頼されていない。
 政府がポスターやビラを配布しても、アウト・オブ・カーストの家族は十分な教育を受けていないために文字が読めない。
 これは情報へのアクセシビリティとアヴェイラビリティの問題である。情報を伝えるメディアに、経済的困窮から近づくことができない。また、教育を受ける権利も機会も認められないために、文字を読む能力(リテラシー)がない。そのために、最悪の人生を送ることになる。
 Falconは質疑応答のときに「図書館は無いのですか」と小倉さんに尋ねた。「(当時は)図書館はその地域にありませんし、仮にあったとしても、アウト・オブ・カーストの人たちは近づくこともできないし、入館できても、本を借りても、文字が読めないのです」と、小倉さんはFalconの愚かな質問に丁寧に答えてくれた。
 日本の状況を考えてみると、メディアに触れて、新聞、雑誌、図書を読むことができるというのは、極めて幸運なことである。この世の中は一歩踏み外せば、奈落の底へ転落する危険にあふれている。情報を知る、文字を読めるということは、社会で生きてゆくことが保障されていることだ。読書というのは、「心を豊かに」「楽しみ」なんて呑気なうわ言で済む問題ではない。人間としての尊厳を守り、複雑な社会で生きてゆくための重要な能力である。図書館も無く、読書もできないために、人としての尊厳を蹂躙されて、性欲の捌け口にされている少女たちのことを考えると、日本の学校や図書館で論議されていることが実にくだらないことかが解る。「読書」や「読み聞かせ」で、意見が違うと言って、感情的になり、相手を侮蔑するのは、恥さらしであり、「図書館の関係者」「学界」の面汚しである
 以前、市民を対象にした講演を頼まれたとき、一市民の方から、「中国では子どもたちが労働しているから、生き生きとしている。勉強が楽しいと言っている。だから、日本の子どもたちも労働させれば、非行などの問題を解決できる」という意見を頂いた。たまに職場体験するなら、日本の子どもたちも喜ぶだろう。毎日、労働だったら、不幸だ。中国の文化大革命の時代を振り返ってもらいたい。義務教育の意味を考えてもらいたい。モロッコやチュニジアには学校で学ぶことのできない子どもたちがまだいる。
 心臓の弱い人にはオススメできないが、梁石日(ヤン・ソギル)著『闇の子供たち』(幻冬舎文庫)を読んで欲しい。タイで売春をさせられて、臓器売買にまでさせれられる少年少女の姿が描かれている。あくまでもフィクションであるが、生々しい現実がそこにある。読んだ人の多くが一ヶ月ちかく衝撃から立ち直れなかったという。Falconも読後、2週間気分がすぐれなかった。世界には、いまだに「文字」を知らないために、性欲の捌け口にされて、骨から皮まで捨てることなく、先進国の人間のパーツにされている子どもがいることを知っておいて欲しい。残酷という言葉でも、軽薄で、表現することすら憚れる。
 医学用に本物の人骨が売られているが、もしかすると、あれが……と考えると、ただならぬ恐怖を感じてしまう。

04:41:55 | falcon | comments(0) | TrackBacks