April 27, 2012

西行法師のように

 ぱんだの保護者様をはじめ、皆様にご心配をかけましたが、4月15日に父が息を引き取りました。

 3月下旬に肺炎を併発して、病院に入院しましたが、4月になって緩和ケアの病院に転院しました。
 最初に入院した病院で、主治医の先生に「長く保って、1ヶ月ですね。たった今、死亡してもおかしくはありません。2週間か、3週間かも」と宣告された時には、「父は懸命に頑張ってきましたから」と言うのが、やっとでした。

 子どものころ、ハンサムで、肉体労働で鍛えた父と一緒に歩いていると、気が引けました。実際の年齢よりも15歳から20歳は若く見えた父でした。父が60歳のころは40歳くらいに見られました。だから、高校生の時に父と歩いていると、親子には見られませんでした。背は低い父でしたが、堂々とした身のこなしとガッチリした体格のおかげで、むしろ大きく見えました。
 Falconの弟妹も、父には憧れのような、コンプレックスのような感情がありました。
 父は永遠に死なないと思っていました。
 今でも、生きているような気がして、葬式を出したことが嘘のような気がしています。別の人の葬式を出したみたいです。

 父は太平洋戦争中に少年期を過ごしていますから、ほとんど学校へ入っていません。小学校(当時は尋常小学校)すら、まともに卒業できませんでした。
 ですが、仕事につく前に、親友の兄が持っていた蔵書を読んでいたそうで、母と結婚する前には、『文藝春秋』を読んでいたそうです。仕事は肉体労働の連続でしたから、とても読書をしていたと思えませんでしたが、ときどき石川啄木の歌をそらんじていました。それから、恐ろしいほど精密な図面を書きあげていました。
 立派な大学を卒業したわけではありませんし、土木関係の仕事をしていましたが、尊敬できる父でした。

 父が、まだ意識があった時に、Falconがフランス語で書いた文章を掲載した雑誌が届いたので、見せることができました。
 「きれいな本だな」と一言つぶやいて、満足そうに微笑んでいました。雑誌の表紙には梅の花が咲いていました。

 父が永遠の眠りについたとき、満開になった立川の桜が散り始めました。まるで西行法師の歌のように、父は春死にました。

 願わくは花のもとにて春死なむ
            その如月の望月のころ

23:00:39 | falcon | comments(0) | TrackBacks