July 17, 2010

地球温暖化「懐疑派バスターズ」VS広瀬隆

 地球は本当に温暖化しているのだろうか?
 二酸化炭素は本当に地球温暖化の原因なのだろうか?

 広瀬隆著『二酸化炭素温暖化説の崩壊』(集英社新書)を読み始めた。

 養老孟司著『バカの壁』(新潮新書)では、「二酸化炭素が地球温暖化の原因とは限らないと考えるのが科学的な態度である」という主旨のことが述べられていて、なるほどそうだと思ったことがある。

 1970年代は「地球は寒冷化して、人類は滅びるかもしれない」とマスコミに脅かされた。ところが一転して、今は「地球は温暖化ガスによって、温暖化している」と言われ続けている。
 Falconは、専門家ではないが、少なくとも二酸化炭素が地球温暖化の原因とは思っていなかった。地球が寒冷化したり、温暖化したりするのは他に原因があると思っていた。

 広瀬隆氏の著書は刺激的で、読み始めると、やめられない。
 『ジョン・ウェインはなぜ死んだか』も非常に興味深い本である。
 しかしながら、地球温暖化を主張している人を「こんなに批判してもいいの?」と、傍目でハラハラしてしまう。

 広瀬氏は本書で書いていないが、地球温暖化を主張している人たちは、地球温暖化に懐疑的な意見、あるいは反対意見を述べる人を監視して、インターネットのサイトを殲滅する活動しているらしい。こうした人たちを「地球温暖化懐疑派バスターズ」という。これは「言論統制」と呼ぶに等しい。まるで「魔女狩り」である。こんなにして守りたいのは一体なんだろう。哲学、宗教、文学の解釈をめぐる問題は判断しかねるが、自然科学であれば実証的な事実に基づいて判断すれば解決のつく問題である。「懐疑派バスターズ」のことを新聞で知ったときは、広瀬氏が批判する以前に恐ろしいものを感じた。

 地球温暖化問題と似ているなあと思ったのが、環境ホルモン問題である。NHKの番組がきっかけになって、大変な騒ぎになったが、それで問題になった物質の多くが生物に生殖機能を低下させるほどではなかった。船底にフジツボが付着するのを防ぐために塗料に混ぜていた有機スズは、環境ホルモンと言うより毒性が強すぎたので使用が禁止されているが、ビスフェノールは恐れられたほどではなかった。実は人工の物質よりも、屎尿処理場の廃液に含まれる人間の女性ホルモンが川魚のコイなどの性機能を低下させたり、オスをメス化させている。真の環境ホルモンは人間の女性ホルモンであったと言われている。
 それに映画でも話題になったクマノミという魚は性転換をする魚として知られる。魚の性転換は驚くことではない。

08:32:10 | falcon | comments(0) | TrackBacks

テキスト(教科書)の重大な影響力:著作権問題、再び

 これまでも著作権の問題を取り上げたが改めて検討したい。というのも、大学生と学校図書館の講義で著作権について学んでいたが、講義の後のコメント・ペーパーで「著作権は財産権というよりも、人格権としての重要性を考えたい」という主旨のコメントがあった。
 おそらく、某出版社の『情報メディアの活用』の受け売りであろう。
 問題となっている学校図書館司書教諭講習および大学の課程用のテキストは、再三、出版社に申し入れて、訂正してもらっているはずなので、新しい刷のテキストであれば、問題ないと思う。古い刷りのテキストには「著作者に敬意を表すために、引用の出所を示す」「著作物を大切するように指導する」「著作者を尊敬する」「侵害すると莫大な罰金を支払うことよりも、人格権の立場から著作者を尊敬するように指導したい」などのように、いわゆるモラルの問題と著作権の問題をまぜこぜにしたうえ、財産権としての著作権よりも、「人格権」としての側面を強調している。

 「著作物を大切にする」という考えは、著作権の目的としても大切な点だが、日本の著作権法では、著作者、著作権者、著作隣接権者の権利の保護を図るのが目的で、著作物の表現を財産権として保護している。
 日本の著作権法における著作者人格権は、「公表権」「氏名表示権」「同一性保持権」であり、「著作者に敬意を表す」とか、「著作者を尊敬する」とかは、まったく無関係である。著作者人格権は、「著作者の精神的利益」を保護していると解釈されることもあるが、問題となっている「人格」とは著作者の社会的な立場、名誉、声望、名声と考えるべきで、日常的に「人格者」と言った場合の「尊敬に値する人のあり方」というニュアンス、意味合いは無い。公表権は著作物を公表するか、否かの権利であり、氏名表示権は戸籍上の本名、あるいは芸名・筆名などの仮名を著作物に表示するか否かの権利である。同一性保持権は、著作物に改変を著作者以外のものから加えられない権利である。だから、財産権VS著作者の精神性という対立は、あり得ない。

 ここまで説明すると、「外国の著作権法にはリスペクト(respect)の精神があるじゃないか」と反撃する人がいる。高校までの英語教育、受験英語では、respectは「尊敬」、あるいは動詞として「尊敬する」と翻訳されるが、正確には「(対等な立場で、相手の権利を)尊重する」と解釈される。相手を高みに置いて敬うというlook up toというイディオムとは同義ではない。

 ここまで考えてきて、改めて、図書館の恐ろしき「宿業」を考えなければならない。
 「図書館の自由に関する宣言」「図書館員の倫理綱領」によれば、図書館職員は個人的な判断で資料の廃棄はできない。たとえ、「間違った解釈」「古い考え」と気が付いたとしても、「資料収集の自由」「資料提供の自由」の精神の点から、価値判断ができない。もし、個人の判断で資料の廃棄を行えば、少なくとも「資料提供の自由」を侵害することになる。図書館は「教育機関・施設」と思われているが、実は単なる「情報提供機関」でしかない。「間違った記述・表現」が資料にあっても、収集した以上は責任を持って利用者に提供しなければならない。
 利用者は「ブック・スキル」「メディアリテラシー」を持って、資料や情報に接しなければならない。図書館は資料を提供するだけなのだから、利用者が判断しなければならない。「著作者が専門家か?」と奥付の著者紹介で判断すべきだ。複数の情報で、資料の記述を見直さなければならない。「ブックスキル」「メディアリテラシー」を利用者が持ち合わさないと、一つの著作物で解釈を思いこんでしまう。「思い込み」は恐ろしい。権威と尊敬を身にまとった「思い込み」を取り除くためには、人間同士の信頼関係を壊すほどのエネルギーを必要とする。
 となると、著作者と出版者の責任は重大で、著作物を世に送り出すときには、極めて慎重に判断して、世に問う必要がある。気分次第の垂れ流しは許されない。一度、世に出た著作物は半永久的に「図書館」と言うブラックホールに飲み込まれてしまう。淘汰はされるけれども、無垢な利用者が誤飲してしまう危険性が潜んでいる。

 Falconも教科書を書くこともあるので、身にしみて、事の重大さを考えたい。

01:12:13 | falcon | comments(0) | TrackBacks