May 11, 2008

日本海側は「歴史の表舞台」だった

 小島毅著『足利義満 消された日本国王』(光文社新書339)を、後もう少しで読み終わるところです。
 東大の先生が書かれた真面目な日本の歴史に関する本ですが、ところどころ脱線があり、遠い歴史の出来事が身近に感じられる、親しみやすい文章です。勿論、本格的に歴史を研究するには、参考文献を読み漁って、考証する必要があるでしょうが、歴史ファンは取りあえず小島先生が提供してくれる情報を元に楽しむことができます。
 足利義満と言えば、何と言っても、京都にあります金閣、正確には鹿苑寺のことですが、北山第を日本人の誰しもが記憶しています。南北朝の争乱を終結に導いた人、日明貿易を活発にした人、もう少し詳しく知っている人ならば、「日本国王」を名乗った人物としても記憶しているでしょう。
 全編、今まで日本史の教科書で教わったことが次々に塗り替えられて、「へー、そうだったんだ」の連続です。
 なかでも、112〜113頁の「かつての表玄関は日本海側」を読んで、日本史の見方が大きく変わりました。
 幕末の頃まで日本の表玄関は日本海側で、太平洋側は近代になって中心的な場になったという考えです。たしかに、江戸時代まで中国や朝鮮と国交があり、国内の物資もほとんどが日本海側で取引されていたことを考えると、鎌倉も江戸も武家政権があるといっても、それほど重要でなかったのです。むしろ、裏舞台だったからこそ、京都に対抗して武家政権が誕生したのだし、秀吉から家康が江戸を拝領したのも入り江があり、住みにくい、不便な場所だったからです。
 そうして考えると、継体天皇が越前国からやってくるのも、今の我々が考えるような「辺鄙な国」からやってきたのではない。大伴家持が越中国府(今の高岡市)へ赴任するのも、左遷どころか、ラッキーな処遇だったのだし、源氏物語の作者として知られる紫式部が過ごした父の任国、越前国は寂れた田舎だったわけではないし、義経がみちのくへ落ち延びる時、安宅関を通るのも当時としては幹線ルートだったのでしょう。加賀百万石と言われて、前田家が栄えるのも当然なんですね。歴史の見方が大きく変化しました。
 昨年、富山県氷見市と高岡市を訪れたとき、史跡が多いことに驚きましたが、この本の指摘で十分納得がいきました。

 ところで、以前から気になっていることですが、室町幕府の将軍が15代続くのと、江戸幕府の将軍が15代続くのは、単なる偶然の一致でしょうか?実は鎌倉幕府の将軍ではなく、執権ですが、北條時政から貞時までちょうど15代になります。これも単なる偶然でしょうか。
 この話を歴史に詳しいある人にしたら、「水戸家の大日本史の編纂事業を関係しているのではないか」との指摘を受けました。偶然とは言え鎌倉幕府の執権、室町幕府・江戸幕府の将軍がすべて15代になると言うのは、あまりにも一致しすぎます。受験勉強で暗記しやすいと言えば、暗記しやすいけどね。


04:00:53 | falcon | comments(0) | TrackBacks