July 31, 2010

読書に学校図書館は必要なしか?

 『リーディング・ワークショップ』を読んでいるのだけれども、学校図書館は登場しない。町の図書館、公共図書館(公立図書館)は登場する。教室の図書コーナー、要するに学級文庫は登場する。けれども学校図書館は出てこない。日本の研究者がひたすら褒めたたえるアメリカの学校図書館はどこに行ってしまったのかと嘆息してしまう。

 最近、読んだ論文でアメリカ合衆国の全州で学校図書館の専門教員が配置されているとは限らない、州によっては大学院レベルの図書館情報学、あるいは学校図書館専門職の科目を受講していることを採用条件にしていないところもあると述べていていたので、納得できた。アメリカ合衆国は広大である。学校図書館に熱心でない州もあって当然で、日本と同じことが言える。しかし、アメリカ合衆国のダメなところを模倣しないようにしよう。

 『リーディング・ワークショップ』でヒューチャーしている方法はたしかに興味深いけれども、日本でこんなに丁寧に子どもの読書を把握している先生がどれくらいいるのか考えてしまった。この著作に登場する先生たちは、子どもたちの読書をよく観察している。子どもたちに何の本を与えたらよいかを把握している。

 日本ではほとんどの場合、子どもたちが何を読んでいるのかも把握しないで、放任主義を取っているのではないか。
 と書けば、当然のごとく、烈火のように怒って反論する人が出てくるだろう。「ちゃんと読書アンケートを取って、子どもたちの読書状況は把握していますよ」「感想文、書かせています」「読書郵便させている」「貸出状況を把握しています」とね。『リーディング・ワークショップ』を読めば、ここまでできない、していないと自覚するにちがいない。

 「だけどさ、読書は個人の行為でしょ、教師が介入するのは間違っていない?ほら、『図書館の自由に関する宣言』にあるじゃない!」

 『図書館の自由に関する宣言』第3の主文に「図書館は利用者の秘密を守る」とはあるけれども、利用者の秘密、個人のプライバシーを外部に漏らすことを防いでいるのであって、学校図書館において、子どもたちが何の本を読んだかを、守秘義務のある司書教諭が教育上の配慮を持って把握することは、『図書館の自由に関する宣言』には反していないと思う。
 しかしながら、これには反論があって、学校図書館には学校司書(他にも読書指導員などの呼び名がある)という専門職員がいて、子どもたちの貸出記録を管理しているので、貸出記録を司書教諭をはじめとする教諭が「読書指導」という貸出の目的外に使用するのは良くないと述べる研究者がいる。

 Falconには反論に対する反論がある。この研究者は司書教諭をはじめとする教諭を「学校図書館の外部の人」として扱っている。つまり、学校図書館を学校全体から切り離している。学校司書の処遇は脇によけて、司書教諭が本来の学校図書館の専門教員なのだから、子どもたちの貸出記録、読書の様子を把握して、読書指導をするのが当然で、『図書館の自由に関する宣言』に優先して、地方公務員法などで守秘義務がある以上、問題ない。
 むしろ、司書教諭をはじめ教諭たちが、子どもたちの読書に関与しないで放任している、学校司書やボランティア(本好きのおばさんたち)にまかせっきりにしていること自体、重大な問題だと思う。それで、馬鹿の一つ覚えのように「読書離れ」「活字離れ」と騒ぐのはどうかしていると思う。

 『リーディング・ワークショップ』を読む限り、学校図書館の重要性は感じられない。深読みをして、やはり学校図書館が大切だなあということもできるけど、この著作の著者の考えからすれば、本に書いていないことを勝手に想像するのは間違いである。
 少なくとも言えることは、教員は子どもたちが読書をすればいいので、その本が学級文庫にあっても、公共図書館にあっても、書店にあっても、家庭にあっても良いわけだ。著者は言及していないが、学校図書館もその選択肢の中の一つに入っていると考えてもいいだろう。

 もうすぐ沖縄へ行くので、ウチナンチューの言い草じゃないけれど、だからよ〜、学校図書館が大切だって、言いたいよ〜。

Posted by falcon at 01:01:29 | from category: Main | TrackBacks
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