September 24, 2007

「十九の春」

 「ナビィの恋」の劇中歌として唄われた「十九の春」。Falconが沖縄にいた頃、知り合いの人が宴会でよく歌っていました。沖縄の俗謡として、今でもカラオケの歌集にも載っています。
 数年前、ネットで検索して、「十九の春」の本唄だったと言われる「嘉義丸のうた」を知り、レファレンスサービス演習や情報検索演習の問題に使っています。原曲を尋ねる問題シリーズで、ほかに「オー・シャンゼリーゼ」「マイ・ウェイ」などがあります。

 「嘉義丸のうた」は、朝崎郁恵さんの父親が作詞・作曲したとして、奄美諸島の加計呂麻島で歌い継がれていたらしい。

 その他、「十九の春」と同じメロディーでは、「与論ラッパ節」「与論小唄」など、さらに替え歌を含めたヴァージョンが存在して、もともとの原曲はどこにあるのか?

 

 今年の春、ジャーナリストだった著者・川井龍介氏が『十九の春を探して』を出版しました。Falconは以前から興味を持っていたことなので、今、読書中です。

 第二次世界大戦中、嘉義丸だけでなく、多くの日本の船舶がアメリカの潜水艦、魚雷艇の標的になって沈没した話はテレビの歴史番組などで知っていましたが、こんなにも悲惨な実態だったとは知りませんでした。この本を読んで、初めて知って、驚愕しました。軍人であろうと、民間人であろうと、その命の重さに変わりはありませんが、船の沈没で命を落とした民間人の中には、親族にも知らされなかったり、たとえ親族が知ったとしても、戦時中だったこともあり、口外出来ず、葬式もひそかに行なわれたそうです。さらに遺族に対して十分な手当もされないそうです。本来、日本政府は、いくら敗戦したとは言え、アメリカに対して、無差別な攻撃で民間人が犠牲になったことを訴えなければなりません。アメリカの公式文書にも撃沈した船舶の記録が残っているのですから、外務省と厚生労働省が正式に申し入れるべきです。詳しくは、この本を読んでください。「嘉義丸のうた」は、胸に迫る、辛い、悲しみに耐えられない歌です。

 さて、今、改めて驚いているのは「十九の春」は昭和50年に、バタヤンこと、田端義夫さんが歌ってヒットしたことです。この歌は、Falconが生まれるずーっと前、戦争直後に流行った歌と思っていました。田端義夫さんといえば、東海林太郎さんや藤山一郎さん、春日八郎さんとおなじ、Falconにとっては、昔の歌謡曲、つまり父や母の世代の「懐かしのメロディー」の人です。それが昭和50年、1975年 → 大阪万博の5年後です。森昌子、桜田淳子、山口百恵の「花の中三トリオ」が昭和48(1973)年にデビューした2年後です。何かの間違えかと思いましたが、沖縄で「十九の春」がレコーディングされたのが1970年代の初めですから、田端義男さんが唄ったのは、その後ですね。沖縄の本土復帰(1972年)の後だったのですね。意外にも、新しい歌でした。あっ、若者の皆さんには古ーい歌ですね。あ、あ、Falconも記憶に微かに残っていましたヨ!(先日、阿久悠さんが亡くなって、テレビでピンクレディー、山本リンダさんの歌、それから「また会う日まで」「白い蝶のサンバ」が流れたとき、思わず歌詞を口ずさんで、ハッとしてしまいました。困っちゃうなー!Falconは、まだまだ若いのに)

 さらに、驚くのは「十九の春」の原曲の一つとされる「ラッパ節」は明治時代にビゼーの歌曲「カルメン」の一部の曲をアレンジしたと言うのです。

 謎と思いは、浜の砂よりも尽きません。

Posted by falcon at 02:09:38 | from category: Main | TrackBacks
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