July 31, 2010

学校図書館で国語の授業?

 今だったら、あまり反対する人は少ないと思うけど、Falconが「学校図書館で本の読み方を教えるべきだよ」と言ったら、「それは国語の授業で、学校図書館ですることではありません」と反論された。反論した人たちは学校司書で、授業を担当できなかったので、「本の読み方=国語の授業」、だから、自分たちの学校図書館の活動の範疇でないとしていた。

 だから、『リーディング・ワークショップ』で述べられている方法は、以前だったら、「なんだ、これは国語の授業じゃない。ダメ、ダメ」と反論されたであろう。

 今は学校司書の人たちも、司書教諭たちも、学校図書館で国語の授業をすることに違和感はないと思う。学校図書館で授業をするのが本来の姿である。読み聞かせ、ブックトーク、貸出だけで学校図書館の読書活動はおしまいなんて考える人は少ないだろう。

 しかしながら、「学校図書館で本の読み方を教えるというのは、国語の授業だから別物」と考える人はいるだろう。


 先日、観た映画『パリ20区、僕たちのクラス』で、国語(フランス語)の教師がひたすら本の読み方を教えていた。勿論、フランス語の文法、動詞の活用と綴りも教えている。

 ふと、思った。日本の国語の授業は欧米の国語の授業と大きな違いがある。日本の国語の授業では漢字の綴りを教えなければならない。欧米のほとんどの国ではローマ字、キリル文字、ギリシア文字、20〜30字程度、記号を付けたつづり字も含めても40字以下だけで、中等教育レベルでは一々文字を教えなくてもよい。アラビア語だって、語頭形、語中形、語尾形があるけれども、文字は28字しかない。
 欧米、アラブ諸国などでは、日本語の漢字に比べればはるかに少ない文字で、国語の授業ができる。そうそう、ハングルだって、文字は少ない。

 漢字を使う日本、中国などを除けば、ほとんどの国で文字を覚えさせることなく、本の読み方、言語表現に国語の授業に集中できる。
 だからと言って、日本語をローマ字化せよ、日本の公用語を英語にしようなんて、非現実的な論議をしようと思っていない。
 日本人は複雑な言語を駆使して優れた文学を想像してきたのだから、そんなに卑下する必要はない。
 フランスではマンガをはじめ、日本文学・文化に憧れを持つ人が多い。

10:41:51 | falcon | comments(0) | TrackBacks

読書に学校図書館は必要なしか?

 『リーディング・ワークショップ』を読んでいるのだけれども、学校図書館は登場しない。町の図書館、公共図書館(公立図書館)は登場する。教室の図書コーナー、要するに学級文庫は登場する。けれども学校図書館は出てこない。日本の研究者がひたすら褒めたたえるアメリカの学校図書館はどこに行ってしまったのかと嘆息してしまう。

 最近、読んだ論文でアメリカ合衆国の全州で学校図書館の専門教員が配置されているとは限らない、州によっては大学院レベルの図書館情報学、あるいは学校図書館専門職の科目を受講していることを採用条件にしていないところもあると述べていていたので、納得できた。アメリカ合衆国は広大である。学校図書館に熱心でない州もあって当然で、日本と同じことが言える。しかし、アメリカ合衆国のダメなところを模倣しないようにしよう。

 『リーディング・ワークショップ』でヒューチャーしている方法はたしかに興味深いけれども、日本でこんなに丁寧に子どもの読書を把握している先生がどれくらいいるのか考えてしまった。この著作に登場する先生たちは、子どもたちの読書をよく観察している。子どもたちに何の本を与えたらよいかを把握している。

 日本ではほとんどの場合、子どもたちが何を読んでいるのかも把握しないで、放任主義を取っているのではないか。
 と書けば、当然のごとく、烈火のように怒って反論する人が出てくるだろう。「ちゃんと読書アンケートを取って、子どもたちの読書状況は把握していますよ」「感想文、書かせています」「読書郵便させている」「貸出状況を把握しています」とね。『リーディング・ワークショップ』を読めば、ここまでできない、していないと自覚するにちがいない。

 「だけどさ、読書は個人の行為でしょ、教師が介入するのは間違っていない?ほら、『図書館の自由に関する宣言』にあるじゃない!」

 『図書館の自由に関する宣言』第3の主文に「図書館は利用者の秘密を守る」とはあるけれども、利用者の秘密、個人のプライバシーを外部に漏らすことを防いでいるのであって、学校図書館において、子どもたちが何の本を読んだかを、守秘義務のある司書教諭が教育上の配慮を持って把握することは、『図書館の自由に関する宣言』には反していないと思う。
 しかしながら、これには反論があって、学校図書館には学校司書(他にも読書指導員などの呼び名がある)という専門職員がいて、子どもたちの貸出記録を管理しているので、貸出記録を司書教諭をはじめとする教諭が「読書指導」という貸出の目的外に使用するのは良くないと述べる研究者がいる。

 Falconには反論に対する反論がある。この研究者は司書教諭をはじめとする教諭を「学校図書館の外部の人」として扱っている。つまり、学校図書館を学校全体から切り離している。学校司書の処遇は脇によけて、司書教諭が本来の学校図書館の専門教員なのだから、子どもたちの貸出記録、読書の様子を把握して、読書指導をするのが当然で、『図書館の自由に関する宣言』に優先して、地方公務員法などで守秘義務がある以上、問題ない。
 むしろ、司書教諭をはじめ教諭たちが、子どもたちの読書に関与しないで放任している、学校司書やボランティア(本好きのおばさんたち)にまかせっきりにしていること自体、重大な問題だと思う。それで、馬鹿の一つ覚えのように「読書離れ」「活字離れ」と騒ぐのはどうかしていると思う。

 『リーディング・ワークショップ』を読む限り、学校図書館の重要性は感じられない。深読みをして、やはり学校図書館が大切だなあということもできるけど、この著作の著者の考えからすれば、本に書いていないことを勝手に想像するのは間違いである。
 少なくとも言えることは、教員は子どもたちが読書をすればいいので、その本が学級文庫にあっても、公共図書館にあっても、書店にあっても、家庭にあっても良いわけだ。著者は言及していないが、学校図書館もその選択肢の中の一つに入っていると考えてもいいだろう。

 もうすぐ沖縄へ行くので、ウチナンチューの言い草じゃないけれど、だからよ〜、学校図書館が大切だって、言いたいよ〜。

01:01:29 | falcon | comments(0) | TrackBacks