May 20, 2009

LLブックって何?

 丸善で図書館関係のコーナーを捜していた。
 そこで、ふと見つけた本がある。

 

 藤澤和子,服部敦司編著『LLブックを届ける:やさしく読める本を知的障害・自閉症のある読者へ』(読書工房)

 公立図書館では視覚で不自由を感じる人(視覚障害者)に対する配慮はかなり行われてきた。最近はディスレクシア(難読症)の子どもたちへも配慮されている。聴覚で不自由を感じている人への配慮として、磁気共鳴ループなどで補聴器へ雑音のないクリアな音声を伝える装置が設置された図書館がわずかであるが増えてきた。CDやDVDを視聴するとき、ヘッドホーンを使わずにアンプから直接、補聴器へ電波や赤外線で音声情報を伝えるシステムもある。
 いままで見過ごされてきたのが、知恵遅れ(知的障害者)・自閉症などで不自由を感じていた人たちへの配慮である。
 この本は1960年代にスウェーデンではじめられた「やさしく読める本LLブック」を届ける運動を紹介して、そのほかマルチメディアDAISY、図書館・学校での試みを紹介している。

 知恵遅れや自閉症などで不自由を感じる子どもへのサービスとしては、同じく1960年代にスウェーデンなど北欧諸国で始まった「おもちゃ図書館」の活動がある。この点も紹介してもらえたら、もっと奥行きのある内容になったと思う。

 もっと贅沢を言わせてもらえれば、性の問題を図書でやさしく伝えるにはどうしたら良いかを触れてもらえたら、なお良かったと思う。



 不自由を感じる人たちの性の問題を真正面から取り組んだ「障害者の生と性の研究会」の著作がある。出版されたのが随分と前なので状況が多少変わっているけれど、大切な問題なので是非考えてほしい。
 実は視覚で不自由を感じる男子中学生・高校生がエロ本を読めなくて困ったという話をよく聞く。まさか学校図書館でエロ本を蔵書にするわけにはいかないし、対面朗読でボランティアの女性に「エロ本、読んで」なんてお願いするのも勇気がいる。エロ本は男の子の成長には欠かせないものだけれども、あまり考慮されていない。

 図書館の中には、不自由を感じている人の問題をことさらに取り上げる人がいるけど、「気持ちがわかる」と代弁者のようにふるまい、興味本位に取り扱われるのは困る。
 それに「障害者」は使いたくない言葉だ。「不自由な人」というのもレッテルを張られるみたいで気に入らない。何度も書き込んだけど、Falconは足に軽い奇形がある。だから、ボクらのことを「不自由を感じる人」としている。社会の側に障害があり、そのためにボクらは不自由を感じているだけだ。その社会の側の障害さえなくなれば、不自由を感じないで生きられる。
 「知恵遅れ」も敢えて使っている。遅れはいつでも取り戻せるからだ。正直、毎日のように「遅れている」自分を痛感している。誰もが、いつもスタートラインで遅れを感じている。ちょっとした努力で遅れは簡単に取り戻せる。「知恵遅れ」という言葉は「知的障害者」よりも希望を与えてくれるとFalconは確信している。


00:44:52 | falcon | comments(0) | TrackBacks

May 19, 2009

図書館の自由に関する事例集と高校生

 今日、下高井戸へチェ・ゲバラの映画を見に行こうとして、井の頭線に乗っていた時、車中で高校生が日本図書館協会発行の『図書館の自由に関する事例集』を読みふけっているのを見かけた。あまりじろじろ見るのも悪いと思って気が引けたが、貸出用のバーコードラベルを見ると、近隣の高等学校の図書館のラベルが貼ってあった。

 よほどの専門家しか興味を示さないような日本図書館協会の本が、高等学校の学校図書館の蔵書になっていて、それを借りる高校生がいて、さらに電車の中で読んでいるのに、快い驚きを感じた。おそらく『図書館戦争』を読んで、『図書館の自由に関する宣言』に興味を持ったのだろう。いずれにせよ、図書館に興味を持ってくれることはとてもうれしい。正しい知識を身に付けて、健全な市民社会を築いてほしいと思う。

 近くにリアル砂川がいることに気付いただろうか。

 自分で「リアル砂川」と名乗ってしまっては、お仕舞いだよね。

21:00:41 | falcon | comments(1) | TrackBacks

May 18, 2009

図書館の自由と自己愛の世界

 タイトルが奇妙な取り合わせだが、随想なので、論理的におかしいなどと騒ぎ立てずに読んでほしいと思います。

 実は今日、仕事が休みだったので、フランス旅行で壊してしまい、修理に出していたトローリーバッグ(車輪の付いた旅行用のバッグ)を受け取りに浅草へ行った。帰りに東京駅のオアゾ・丸善に立ち寄り、図書館司書が資料の閲覧記録を新聞記者に漏らす場面で問題になった相場秀雄著『奥会津三泣き因習の殺意』(小学館文庫)を捜した。



 日本図書館協会のメルマガに紹介されていたので、出版社によって回収されたか、メルマガを見た人たちが買いあさり、もう店頭に残っていないだろうと半分あきらめながら、文庫の棚を見たら、なんと平置きで、直ちに見つかった。一応、中身を確認したら、問題の個所を発見!まだ重版が出ていないので、訂正されていなかった。

 大書店は本当に目に毒だ。
 もうこれ以上は買わないぞ!と心に決めたものの、『結局、自分のことしか考えない人たち:自己愛人間とどうつきあえばいいのか』(草思社)の帯を見てしまった。



 「気に入らないと激怒し、都合が悪いとウソをつき、人を見下し利用する自己愛人間の本質をついに解明!(←赤い大文字)

 つい手が伸びて、買ってしまった!

 帰りの電車の中で読みふけった。
 自己愛人間の7つの大罪を例示している。
 各節一つ一つ読んでいると、何人かの顔が思い浮かぶ。いる!いる!身近にいる。
 こちらが聞いていないし、全然興味がないのに、「外国語を習っている」とか、「ヨガを習った」とか、話し出す。自分のことばかっり話して、人の話を聞こうとしない。自分が失敗すると、大げさに悲劇のヒーロー・ヒロインを気取って、周囲から憐憫を集めようとする。かと思うと、突然、激怒して、喚き散らす。挙句の果てに相手を必要以上にこき下ろす。
 教育現場、図書館は自己愛人間を吸い寄せる。一般の職場よりも特に多い。
 なぜか、Falconは自己愛人間に好かれるというか、狙われて、付き合わされることが多い。それだけ付け込まれる隙がある。できるだけ近寄らないようにしているが、出くわしたら、避けようがない。
 この本は自己愛人間への対処法が書かれている。ざっと眺めたが、かなり難しそうで、本気に取り組むとなったら、忍耐力を鍛えなければならない。もう少し簡単な対処法がないものだろうか。簡単な対処法があったら、本にするまでもないだろうなあ。
 じっくり読んで、出くわしてしまったら、上手に対処したいと思う。

 「七つの大罪」はキリスト教の教理にあり、西洋絵画のモチーフになっている。
 もっとも著名な作品はスペインの首都マドリードのプラド美術館にあるボス(ボッシュとも呼ばれる)の「七つの大罪」だ。10年くらい前にモロッコを旅して、ジブラルタル海峡を船で渡って、スペインへ行ったとき、立ち寄った。
 中心の黒い円の中にキリストが描かれ、周囲に七つの大罪にまつわるエピソードが描かれる。この絵画を少し離れてみると、人間の目を表していることがわかる。キリストを囲む黒い部分が瞳であり、七つの大罪の部分が白眼になっている。つまり、神は人間の罪を見ていることを表している。

 「七つの大罪」と言えば、映画『セブン』を思い出す。
 ブラッド・ピットとモーガン・フリーマン主演のサイコサスペンス映画だった。キリスト教の七つの大罪にまつわる猟奇連続殺人事件が起きる。犯人を追いつめる刑事をピットとフリーマンが演じる。このとき、図書館の利用記録を使って、犯人を突き止めようとするシーンがある。一応、利用記録を手渡す図書館職員らしき人物が「これは違法行為なんだけど」と断わっていたことが印象的だった。『図書館の自由に関する宣言』で取り上げられるエピソードの一つだ。

21:09:58 | falcon | comments(0) | TrackBacks

学校図書館って、「玩具」だったのか

 最近、やっとわかってきた。人間の理解に限界があることを。
 人間は自分の立場を超えて、相手の気持ちになることなんて、どんなに科学が進歩しても、社会が発展しても、不老不死が不可能なくらいに無理である。あくまでも、自分という殻の中に閉じこもりながらでしか、物事を考えられない。

 学校図書館の話をしていると、「自由読書」の話題が出てくる。要するに、学校の勉強を離れて、読書をすることらしいのだけれども、学校図書館で行う読書は、本質的には学校教育の一環であるから、勉強を離れて自由に読書をさせることは全くありえないことになる。反対意見を突き付けるのを避けて、一歩譲歩すれば、自由読書を主張する人は、「強いて勉める」勉強ではなく、気持を開放して、読書に親しむのであって、学校教育の一環で読書をさせるのであると言いたいのかもしれないが、どちらにしても、学校教育を否定しようとする考え方が見え隠れしている。学校教育を否定するならば、学校図書館はありえない。

 学校図書館をメディアセンター化するという主張もある。「本の館」ではなく、さまざまな資料を扱えるようにしたいという考えからだけれども、「メディア」の定義があいまいで、誤解を生みやすい。一般には「メディア=報道などのマス・メディア」と考えられているので、「旧態依然とした」と揶揄される図書などもメディアですと、いくら説明しても、ますます誤解を深める危険性がある。やはり、学校図書館は学校図書館であって、何物にも代えがたいと思っていた方が間違いないと思う。その理解の中で、学校図書館が図書や雑誌、新聞だけでなく、インターネットなどの情報も活用しますというのであれば、問題ないと思う。それにしても、日本の学校図書館は、雑誌も新聞も少ない。フランスの学校図書館は雑誌も新聞も、日本と比べるとはるかに多い。日本の学校図書館はインターネットに飛びつく前に、雑誌と新聞の整備のほうが必要だと思う。

 それで、最初の話に戻るけど、学校図書館に関わろうと思っている人の多くが、学校図書館を自分なりに解釈して、自分の立場を守りながら、いじりまわす「玩具」のように考えている。
 正直言って、日本の学校図書館は、素人でもいじりまわせるくらい、ガードが緩い。学校図書館法もあり、制度が整備されているにもかかわらず、専門家以外の人間でも、口出せるお粗末な状況にある。巨大で恐ろしい素人集団の前に、専門家が成す術もなく、立ちすくむというのが実情だろう。素人集団を気遣う専門家すらいる。
 市民が参加する社会というのは望ましいことだけれども、本質を歪めてまでも市民の参加を許すのは問題である。
 専門家は、意味もなく、自分を卑下することなく、素人に十分な説明ができるように努力をしなければならない。たとえ、素人が自分の立場からでしか物事を考えられないのを承知していても、努力を惜しむことなく続ける必要がある。

12:11:53 | falcon | comments(0) | TrackBacks

May 11, 2009

坐禅を終えて

 鶴見大学の公開講座の一日坐禅を終えてきた。
 思っていたより、早く時間が過ぎた。

 午前中、所作や諸注意を受けて、般若心経の写経を行った。久しぶりの書道で緊張したが、半紙の下に手本が敷いてあったので、字を間違える心配がなく、落ち着いて書くことができた。書き終えて、導師にならって受講者全員で一斉に般若心経を読んだ。書き終えた経文は観音菩薩の中に納めらるそうだ。経文の最後に氏名と願文を書き込むのだけど、「身体健全」を選んだ。これから夏に向けて、体を鍛えねばならない。

 写経を終えて、境内の諸堂をめぐった。むせ返るような新緑に包まれた伽藍に爽やかな風が吹き抜ける。少し暑さを感じたが、心地よい。約160mの百間廊下は修行僧が磨き上げたので、ツルツルピカピカだ。

 あっという間にお昼になった。精進料理を嗜む。修行僧の精進料理はもっと質素なものらしいが、今回はもてなしの精進料理だ。経文を読んで、ありがたく頂く。取り箸はせずに、器を持って頂くのが礼儀と教えてもらった。そういえば、普段は無作法にも取り箸をしていた。今後は気をつけよう。静かに音を立てずに頂く食事も心地よい。食べ終わった後は器にほうじ茶を注ぎ、香の物(沢庵一切れ)で洗う。それを味噌汁の器に入れて、飲む。箸は少しなめて、包みに納める。

 午後は座禅に取り組む。本格的な座り方は結跏趺坐だが、体が硬いFalconは半跏趺坐で座った。はじめ20分、途中休みを入れて、25分坐禅をした。
 目をつぶらない、半眼にする。目をつぶると雑念が湧きあがるからだ。
 老師が「雑念が湧きあがったら、放っておきなさい。雑念に近寄らないようにしなさい。囚われないようにしなさい」と声を掛けてくれた。Falconはいままで坐禅で雑念を払う、あるいは雑念を起こさないと思っていた。老師の言葉でハッとした。人は誰でも雑念が湧きあげるのは仕方のないことで、湧きあがった雑念を放っておけばよいのだ。これから肝に銘じておこう。
 雑念は湧きあがる、心を静かにすればするほど、あふれ出てくる。明日の仕事、食事の事などなど、こまごまとした雑念は心に散らかる。老師の言葉に従おうとしても、雑念に囚われる。仕方がない、とにかく呼吸に集中して心を落ち着けた。

 一日の最後に老師のお話を聞く。「老師」と言っても、Falconと同じくらいの年齢の方で若々しい。
 「現代人の宗教観の崩壊を嘆かわしく思う」と繰り返しおっしゃっていた。
 それから「最近の若い人には3つの心が掛けている」とおっしゃっていた。つまり「我慢する(忍ぶ)心」「信じる」「許す心」だ。「我慢」というのは、仏教で「慢心(我儘な思い上がった心)」を表すので、正確には耐え忍ぶ心であると、老師は御自分の修行時代のエピソードを交えて説かれた。自分を育ててくれる目上の人から叱られるのであれば、自分の人格を磨く上で大切だ。しかしながら、年上の人でも気まぐれに人の心を弄ぶように叱りつける人がいる。それに耐え忍ぶのは無駄だと思う。次の「信じる心」のように、相手を見極めることが大切だ。老師はむやみに信じるのではなく、真実を見抜いて、信じることが大切だとおっしゃった。耐え忍ぶのも、相手を見極めることが必要なのだろう。
 気まぐれに人の心を弄び、我執に満ちた人の妄言を耐え忍ぶ必要はないだろう。雑念と同じく、放っておくしかない。

 今日は栗の花の香がした。初夏になったんだなあと思った。

 坐禅して栗の花咲き烏啼く 一騎

19:45:33 | falcon | comments(0) | TrackBacks