February 26, 2015

パリのブックフェアSalon du livre 2015が大変なことに

 パリで春に開かれる国際ブックフェアSalon du livreで、今年は図書館職員を対象にした講演会BiblioDocが4日間にわたって開催される予定だった。
 それが主催者側から4日間参加で390ユーロは高いという理由で中止に追い込まれた。

 うん、390ユーロは高い、日本円で約55,000円。でも、IFLA国際図書館連盟の参加費もかなり高い(急には思い出せないけど)。IASL国際学校図書館協会の大会もけして安くはない。390ユーロは安いとは言えないが、図書館関連の大会と比べると、まあ、しょうがないかっていう参加費だ。その参加費で、色々な勉強ができるならば、安いもの。

 参加費の問題だけだろうか?

 シャルリ・エブド問題もあるしね。

 サイトでは中止の情報は流れていない。

 まさかデマじゃないだろうね。

 Salon du livre 2015は開催される、大丈夫。
 ロマン・ポランスキー監督が招待されるらしいけど。
 日本の漫画家も招待されるだよね。

 「ねえ、何で、そんな情報、知っているの」

 地獄耳って、ことかな

 「えっ、地獄耳! ずいぶん古風な言い方するわね」

 そうだよね、インターネットの時代なのに。

00:45:24 | falcon | comments(0) | TrackBacks

February 25, 2015

グローバル化はやめてほしい

 グローバル化って、胡散臭い。

 グローバル化には色々な見方があるので、槍で突きにくいことなんだけれど、海外に国内の工場を移すことは、限界が来ている。

 海外に進出して、安い労働力で大量の工業製品を生産して輸入することは、一見すると素晴らしい試みかもしれない。

 結果、中国は世界の工場となって、経済発展につながった。

 しかし、広大な中国とはいえ、環境破壊が著しい。他の国もそう。インドネシアやマレーシアの熱帯雨林は切り倒されて、パームヤシの栽培農園になっている。われわれが使っている中性洗剤、ポテトチップスを作るパーム油をつくるために、オランウータンやトラ、バクたちが熱帯の楽園を追放されている。一枚のポテトチップスがオランウータンの住む森を消していると想像したら。。。

 チョコレートが熱帯の森林を犠牲に生まれていると想像したら。

 学校教育で養ってほしいのは、こういう想像力である。自分たちの生活や行動が、他のことにどのようにつながっているかである。

 話が大袈裟になった。

 言いたかったのは、国外に工場を移すということは、国内産業を減らして、失業者を増やすことになる。
 幸い、日本は他の国に比べると、国外に進出する企業は少なく、先進国の中では失業率が比較的低い。外国語が苦手で幸いしている。

 沖縄のある島では、本島と橋で結ばれたらば、島の生活が豊かになると思われた。しかし、橋ができると、住民は橋を渡って本島へ住むようになり、島の伝統も暮らしも荒廃したという。

 要するに、グローバル化は両刃の剣ということ。もう限界だと思う。

19:55:47 | falcon | comments(0) | TrackBacks

冷静に考えて見れば

 イスラム国による残酷なジャーナリストたちの殺害に、やり場のない憤りをおぼえる。

 フランスでのテロ事件も、許しがたい。

 イスラエルのガザ地区への空爆、砲撃に対して、私たちは無関心になっていないか。イスラエル建国以来続いている、日常茶飯事だけれど、明らかに尊い命が失われている。
 ハマスへの攻撃だとイスラエルは主張しているが、無差別に攻撃するので大勢の子どもたちが犠牲になっている。

 イスラム国に参加するヨーロッパの若者たちと、イスラエルに入植を果たすユダヤ人たち。よそ者の日本人だから思うけど、同じに思える。難しく言えば、等価だ。

 日本に直接、響いてこないので、気が付かないでいるが、アフリカのイスラム武装集団がキリスト教徒の部族を襲っている、また逆にやられたキリスト教徒の部族がイスラム教徒の部族に復讐する。悪の連鎖だ。かつての支配国、いわば宗主国のフランスは手をこまねいている。

 言葉の力は恐ろしい。戦争を美化して、正当化できる。

 けれども、それだけ言葉の力は偉大だ。

 今だからこそ、ごく当たり前の日常生活を一人一人の生き方に取り戻そう。

19:34:48 | falcon | comments(0) | TrackBacks

February 23, 2015

ユダヤ人って:日本の新聞やニュースが伝えない真実

 別に人種差別主義者じゃない。これだけは宣言しておく。

 日本のテレビのニュースでは絶対放映されない事実を見てしまった。

 溜め録しているフランスのテレビ局TF2のニュースで、驚愕してしまった。
 イスラエル軍とガザ地区(パレスチナ人=アラブ系の人たち)のハマスの砲撃が激しい最中に、フランスから「ユダヤ人」たちがイスラエルのベングリオン空港に到着して、イスラエル政府からパスポートを貰って、ノリノリの躁状態の姿を見てしまった。それも何十人もの人たち。ほとんど毎日だそうだ。民族大移動だ。

 ガザ地区ではイスラエルからの砲撃で何人も子どもたちが犠牲になっているというのに、、、

 ユダヤ人と聞くと、私たち日本人だけでなく、多くの人はナチス・ドイツからの迫害を受けたホロコーストを想う。『夜と霧』、そして『アンネの日記』。常に迫害を受けて苦しんできた人たち。何千年も住む土地を失った放浪の民。エルサレムの「嘆きの壁」。もう少し知っている人は、帝政ロシア時代のポグロムというユダヤ人迫害を思い起こすだろう。そしてゲットーという言葉がイタリア語で、ヴェネチアの沖合の島にユダヤ人を隔離した地区があったことも。

 たしかに19世紀から20世紀にかけて人類史に残る大変な迫害を受けた人々、それがユダヤ人である。

 すべてに人々から同情を集めるユダヤ人だけれども、実はそれだけではない。

 いまだにヨーロッパ各地から、世界各地から「ユダヤ人」が神が与えた約束の地イスラエルに、ぞくぞくと入植している。イスラエル政府は大歓迎。パレスチナで戦闘が繰り返されているというのに。

 アメリカの経済界、政界、エンターテイメントの世界を席巻しているのもユダヤ人。

 イスラエル政府から大歓迎されて、まるで豪華旅行をするような気分で入植地の高層マンションに入居する姿を見て、うまく言い表せないけど、複雑な気持ちにさせられる。
 言われなき差別を受けているのは、たしかに同情したい。でも、パレスチナのアラブ人たちの血を流してまで、砲撃を繰り返して、なぜイスラエルの地を占拠するのかと思ってしまう。
 すくなくとも30年前に住んでいたけど、追い出されたっていう人が戻りたいという気持ちはわかる。でも、何世代、下手したら、何十世代も前の先祖が住んでいた地へ戻りたいという気持ちは何だろう。それも戦争までして、戻りたいと思うだろうか。

 イスラエルは行ったことがある。そんなに広くない土地だ。

 そのニュースでは、フランスのパリからイスラエルへ入植するユダヤ人の半分くらいが砲撃を恐れて帰国すると伝えていた。
 やっぱりね。

 「こんな深刻な話なのに駄洒落でしめるの」

 ユダヤ人、アラブ人、クルド人、民族が違っても仲良くしてほしいなあ。結局は19世紀の国家民族主義が問題なんだけどね。
 アイヌ人や沖縄の人たちの問題を抱えながら、単一民族と思いこんでいる日本人にはなかなか理解しにくい問題。

 『アンネの日記』を読んで、素直に涙が流せるのか。

23:59:35 | falcon | comments(0) | TrackBacks

情報活用学習、アクティブラーニングって言うけれど。。。

 週末、関西で行われた図書館の研究会に参加していました。

 1日目はそれぞれ興味深い発表でした。オープンアクセスで投稿料払えばだれでも投稿できるシステムは面白かったし、学校司書の養成カリキュラムにも関心がありました。フィンランドの古文書プロジェクトも大変興味深かった。

 で、2日目の情報活用学習、アクティブラーニングのシンポジウムなんですけど、神戸大学の先生の話は大学生がまともにレポート・論文書けないという、「よくある話じゃないか」っていう挿話でして、導入部としては、それなりに面白いというか、身につまされる、同感できる話でした。
 私大の付属校の司書教諭、高校の学校司書、大学図書館職員がそれぞれの実践を熱心にお話しされていました。それなりに面白かった。

 情報活用学習とか、アクティブラーニングとか、懸命に説明していたのだけれど、前提となっている点を見落としていると思います。

 情報活用学習は、偏差値重視型・知識偏重詰め込み型教育への批判、そして対立項目、反省として行われています。
 情報活用学習では興味関心のあることを見出して、あるいは遭遇した問題に向き合って、図書館やインターネットなどの手段を活用して、調べた情報をまとめて発表する、場合によっては、そのプロセス・成果を振り返り自己評価するという一連の流れを辿ります。色々な学習モデルがあって、大方違いはない。

 これの前提となっているのは、学習者はある程度、意欲と知識があって、それに情報探索スキルや技能、パターン化されたモデルを与えることで、新しい情報を身につけることができるということです。学習者がある程度知識を持っている(これを既知の知識と言います)ことを前提に教育・学習活動を行うことを構成主義といいます。

 でも、こんなことを訳知り顔に言うと「そんなこと、わかっているわよ」と怒鳴る人がいるからね。まあ、いいや。

 それに対して、教育を受ける者(パウロ・フレイレは「被教育者」と名付けたけど)が何にも知識が無いという前提で、刺激を与えて、受けたものの行動、反応を見て、さらに刺激を加えて、行動や意識を変えてゆくというスキナーといった学者たちの考えを行動主義と言います。
 これはパウロ・フレイレが「銀行型教育」と名付けて、徹底的に批判しました。また、イヴァン・イリイチたちは制度疲労を起こした学校教育として、脱構築をめざしました。さらにいえば、ポスト・コロニアル主義の考え方が含まれます。

 情報活用学習にしても、アクティブラーニングにしても、既にある知識に新しい知識や情報を積み上げてゆく構成主義の考え方です。仏教、禅で言えば、人間、あるいは生きとし生けるものには既に仏性が宿っている、それを修行で磨けば、知恵が生まれるという考え方です。誰でも悟りの境地に至れる可能性があります。
 行動主義は「お前たち、馬鹿なんだから、勉強しろ」と怒鳴っているようなもの。どんなに勉強しても、達成感が得られない。ひたすら知識をため込むしかないという地獄のような世界です。救いがあるとすれば、そういう努力を誰かが見ているよ、きっといつかは評価されるよ、というものです。神様や阿弥陀様が救ってくれます。でも、それが蜘蛛の糸だったらば。

 地獄のような行動主義からすれば、構成主義は衆生すべてが救われる有難い教えですが、ここで、

 「ちょっと待った」でしょ。

 そうなんです。構成主義にも問題点があります。既にある程度の知識が無いと、つまり土台が無いと役に立ちません。いくら探索方法を身につけても、それだけで終わってしまいます。地盤の弱い土地に高層ビルを建てる様なもの。情報が簡単に手に入るようになると、覚えなくなります。昔の人、ギリシアの哲学者たちは、人間の記憶力が落ちたのは文字を使うようになったからだと言っています。文字を使うというのは怠惰な人間には便利な話で、一々覚えなくても書いておけば間に合うことなのです。

 大学図書館でラーニング・コモンズって行われていますが、ある程度の知識と学習意欲がある学生であるという前提なので、それが無い学生たちを呼び込んでも、単なる溜まり場の提供にしかなりません。良くて、試験前、レポート提出前の情報交換の場です。
 社会主義だって、みんなが労働意欲があって、働く条件が与えれて、助け合っていけるという条件があれば、問題が無いわけですよね。でも、お金と土地を与えれると人間は怠けるし、一部の人がお金と土地を独占して不平等になる。前提・条件作りが大変なんです。

 ということは、行動主義の考えで、一定の知識を詰め込んで、構成主義の考えで、情報探索のスキルを教えれば、問題は解決しそうに思えます。教育者からすれば、「鞭と飴」を使い分ける。学習者は無知から知恵を身につける。

 「駄洒落を言おうと思って、すべったでしょ」

 ああ、そうでした。鞭と無知ってネ。理想は確かにそうなんですけれど、人間を相手にするのですから、機械的にうまくいくはずが無い。化学反応じゃないし。

 図書館学をしている人の弱点は、教育学・社会学をちゃんと学んでいない。だから、百家争鳴になってしまう。百家鶏鳴かもしれない。変換ミスで気が付いたのですが、百科啓明となれば、良いですね。

14:01:49 | falcon | comments(0) | TrackBacks