July 23, 2012

IFLAとUNESCOによるモスクワ宣言

 モスクワ宣言といえば、アメリカ合衆国大統領ルーズベルト、英国首相チャーチル、ソ連首相スターリンによる第二次世界大戦中における残虐行為を処罰する共同声明(1943)だけど、これはIFLA(国際図書館連盟)とUNESCOによるメディア・インフォメーション・リテラシー(MIL)に関する宣言だ。今年の6月28日に採択された。

 「図書館の自由に関する宣言と、どう違うの?」

 テーマが違う。
 たしかに映画『図書館戦争:革命のつばさ』にIFLAが話題になったけどさ。

 今まで、インフォメーション・リテラシーがどうの、メディア・リテラシーがどうの、と論議をかもしてきたが、概念が一本化してきそうだ。
 アメリカ嫌いのFalconには、アメリカ系のインフォメーション・リテラシーという概念は受け入れがたいが、概念というものは国や文化、社会に受け入れやすく変えていけばよいと思っている。

 今年のIFLA大会はフィンランドのヘルシンキ。面白くなりそうだ。

23:25:19 | falcon | comments(0) | TrackBacks

July 22, 2012

図書館が守るのは資料と利用者です

 『図書館戦争』シリーズとの付き合いも、6年ちかくになりますね。

 ライトノベルの勢いで愉快に物語が展開する点は面白いと思っています。

 専門家は確かに「女子供が喜んでいる」ようなものに口をはさむのは野暮ですし、「素人をいじる」のも考えものです。

 でも、ちょっと待った。

 「また、ですか、ひげジイ。」

 だから、ここは「ダーウィンが来たあ〜!」じゃないんだってば。それに「来たあ〜!」って織田裕二っぽいなあ。

 気を取り直して、真面目に批評をしますと、今回の映画で問題点がより明確になりました。

 「図書館の自由に関する宣言」では、図書館は「資料」と「利用者」を守っています。
 ですから、図書館は「作品」「表現」、さらには「作者」までも守っていませんし、少なくとも「図書館の自由に関する宣言」で解釈する範囲内であれば「作品」も「表現」も、「作者」も守るはずはありません。

 作品の中で、砂川一騎の「一刀両断レビュー」の批評があまり具体的なものではありませんでしたが、「図書館職員が作品の批評をするのは現場の図書館職員はしない」という意見がありました。
 たしかに図書館職員は著作の文学的な価値、歴史的な価値を判定して、社会的な評価はしません。しかしながら、資料としての紹介、お勧め、明らかな誤謬の指摘はします。

 むしろ、「表現」を保護、守っているのは「著作権法」であり、しいては「作者=著作者」の人格権、「作品の文化的な価値」までも守っています。
 どちらかといえば、図書館は「作者=著作者」の権利、財産権を守っていません。無料で著作物である作品を利用者に貸しているので、購入してもらえたら作者=著作者のところに入ってくる収入を結果的には奪っているから、公共貸与権を創設してほしいと作者側から要望されるわけです。
 図書館は、著作者や著作権者の排他的独占権である著作権を「制限」して、営利を目的としない「公正な利用」の範囲で、閲覧や貸出を認めてもらっているわけです。

 『図書館戦争』が文庫化される前に、どれだけ公立図書館で借りられていたでしょうか?
 もし図書館で閲覧・貸出禁止にして、買って読んでくださいとしたならば、著作者である作者に著作権料が入ってきたことでしょう。
 でも、逆に図書館で無料で貸出をしているから、利用者は関心を持って、映画を観に行き、関連グッズ、DVDやブルーレイディスクを買うわけで、図書館での無料貸出が一方的に著作者の権利を侵害しているわけではありません。
 ここは『図書館戦争』シリーズが根本的に抱えている重大な問題で、図書館関係者だけでなく、読者、映画を観た人が一様に感じている「設定の無理」なんです。

 それから「検閲」という行為が、良化隊による書店での「悪書狩り」という形で表現されることに違和感を感じます。
 「検閲」は出版される前に権力側が内容を吟味、つまりチェックして、発禁処分にするなどの行為をすることで、静かに目に見えないところでヒタヒタと行われています。でも、こうした秘密裏の検閲が行われるのは、政権が安定しているときで、政権が代わって、急激な政策変更が起きれば、「悪書狩り」が起きるのです。
 「検閲」が「悪書狩り」になる過程をもう少し丁寧に書けているならば、荒唐無稽の話も現実味を持って受け入れられたでしょう。

 それからそれから、笠原郁と堂上の出会いのエピソードで「検閲=悪書狩り」に対抗するために、「見計らい」する場面があります。見計らいは、通常、書店などの納入者が図書館に出向いて、本を並べて、図書館職員が見て購入を決めることで、図書隊(若き日の堂上)が書店に出向いて買い取ることが「見計らい」と言えるか、どうか、難しいところです。図書館職員が出向いて資料を買い取ることも「見計らい」ですけどね、「検閲」という強大な行為に「見計らい」で対抗するとは、象に向かっていくハリネズミのようなもの。「見計らい」の意味づけがあれば、あのエピソードが生き生きしたと思います。

11:36:43 | falcon | comments(0) | TrackBacks

July 21, 2012

砂川一騎が観たあ〜!映画『図書館戦争:革命のつばさ』

 東京地方は梅雨明けしたのに、春のような寒さです。

 久しぶりです。リアル砂川一騎です。

 『図書館戦争:革命のつばさ』を新宿の映画館で観てきました。

 デジタル映像だそうで、フィルムで映写していないのですね。映画も電子化の時代になったんですね。
 Falconは叔母と義理の叔父(叔母の夫)が映画会社で働いていたので、大学時代、招待券や試写会の券をもらって、多いときは週に5本は映画を見たことがあります。叔母たちからもらった招待券以外にも、当時、各地にあった名画座や2番館、3番館(ロードショー館で上映したフィルムを補修して、上映する映画館で、映像が傷んでいたり、ホコリがちらついたりする)でも観ていました。こんなアナログな時代から見ると、隔世の感があります。

 テレビアニメの時よりも映像がきれいで、描かれる街の情景が美しく、それだけでも観る価値があります。

 ああ、根本的に戦闘シーンは受け入れられません。

 実は、戦争映画を結構、見ています。トム君が出演した『トップ・ガン』も嫌いではありません。観ている間は、興奮して、ストーリーにどっぷりハマってしまうのですが、しばらくたつと燃料がもったいないなあと思ってしまうのです。戦争映画で映像美と哲学性では『地獄の黙示録』も忘れられません。もっとも、この作品、コンラッドの『闇の奥』という文学作品が原作なんですけど。『愛と青春の旅だち(An officer and a gentleman)』も良かったなあ。主演のリチャード・ギア(あのとき、ギアは若かった。先代の貴乃花=貴乃花親方のお父さんにそっくりだった。今は、オレンジーナのCMで、フランス版寅さんだもんね)とヒロインのデブラ・ウィンガーもカッコよかったけど、黒人の鬼教官を演じたルイス・ゴセット・ジュニアが素晴らしかった。『フルメタル・ジャケット』とかさあ、

 いけねえ、戦争映画の評論じゃなかった。

 でえ、ちょっと待った!

 「あらあら、ひげジイ、『ダーウィンが来た』だけの登場じゃなかったんですね」

 違うってば、『図書館雑誌』で使ったセリフなんですけど。

 いくつか、気になった点があります。

 稲嶺氏の家で、作家の当麻氏が『日野の悪夢』という本(ハードカバー)を棚から取り出すシーンで、背(背表紙)の上に指をひっかけて取り出します。あれはマズイ!本の背(背表紙)が痛みます。本を取り出すときには、取り出したい本の背(背表紙)の中ほど、両側の本と本の隙間に指をすべり込ませて、ハードカバーなら溝を指先ではさんで取り出すのが正式な本の取り出し方です。また、稲嶺氏の書棚がギッチリ詰まっているのも問題です。日野で図書館職員をしていた稲嶺氏なのに本の扱い方がわかっていない。

 それから、当麻氏を笠原たちが引きつれて、稲嶺宅から車で逃げ出すシーンで、関東図書隊の基地へ向かうとき、立川へ行きます。そのとき「反対(方向)」と言うのですが、多摩地域に土地鑑のある人ならば、変に思うはずです。稲嶺宅は日野にあり、そこから関東図書隊の基地がある武蔵境へ行くには、立川を通ります。立川には自衛隊の基地があり、ヘリコプターを使って、良化隊を振り切るのです。西から東へ、日野、立川、武蔵境ですから、なぜ「反対(方向)」というのか、わかりません。「間違い」と断言すると、「一刀両断レビュー」の再現ですので、謎としておきましょう。

 作家の当麻氏が最高裁判所で判決を受けて、亡命のため、各国の大使館へ向かうのですが、そのとき、なぜ、最高裁判所のすぐ近くの国立国会図書館へ逃げ込まないのか、これは作品を読んでいたときからの疑問です。それに、最高裁判所にも図書館がありますが、国立国会図書館の支部図書館です。国立国会図書館は、良化隊に占拠されているのか、図書隊と国立国会図書館はどのような関係なのか、作品にはあまり詳しく書いていなかったと思います。最高裁判所と英国大使館は、目と鼻の先なのに、なぜ地下鉄半蔵門線を使う設定になるのか。アメリカ合衆国大使館は虎ノ門・溜池方面ですけど、近いといえば近いけど、英国大使館とは方向が違う。半蔵門線、都営新宿線を使うのは、新宿三丁目駅から紀伊國屋書店本店へ行くための伏線なのか。これらも謎としておきましょう。

 最後に、なによりも、東日本大震災と福島原子力発電所の事故があった後に、「原発テロ」を話題に取り上げた映画を上映したのは、勇気ある決断だったと思います。場合によっては、被災者や県外移住している人たちの気持ちを逆なでしている気もします。できれば、最後のクレジットに被災者への配慮ある一言があれば、本当に素晴らしいと思いました。

 ダメ押しです。原作には無いことですが、砂川一騎が手塚の兄の手先になって、汚名回復してくれたら、面白かったと思います。

 映画館でグッツ買いました。

 「えっ、何、買ったの?」

 扇子です。

22:09:50 | falcon | comments(1) | TrackBacks

July 17, 2012

ご心配いただきありがとうございました

 授業評価アンケートの件で、お騒がせしました。

 今年度の前期は、ほとんどの講義で授業評価アンケートを取ったのですが、思えば、授業の本質的なこと、つまり、教えている内容には何も問題はありませんでした。

 ケチのつけどころが無く、教科書を持っていないことを指摘されたことへの腹いせとか、出席を取るのが少し遅れて1分30秒ていど伸びたことを大袈裟に毎回、授業を延長したとか(都合があって講義終了10分前に終えることが多かった。それなのに公欠について質問してきて、時間を延ばしてFalconのほうが迷惑している!)、隙あらば、こぞって、アンケートに書き込まれてきました。

 Falconの性格は、裏を返せば、それだけ言いやすい、別の言い方をすれば、虐めやすいタイプなのかもしれません。虐められるのは子どものころから慣れています。

 なぜか、今になって、「先生の講義、楽しくて、わかりやすかったです」と、声をかけてくれる学生がいます。

 えーっ、じゃあ、アンケートにひどく心を傷つけること書かないでよ!と叫びたいところですが、アンケートにヒドイ書き込みをしたのは講義の内容をよく理解できなかった可哀想な学生なんでしょう。

 実は、むかしむかし、ある大学で司書教諭講習の講師をしていました。ある年度の講義で毎回、感想を書かせたら、悪辣な、それこそ罵詈雑言を書いていた現職の先生がいました。あまりのひどさに、Falconが夜も寝られないときがあったくらいです。次の年度も受講してくれたのですが、休み時間にボソッと「去年は何だかカリカリしていて、講義の感想、やたらと先生を傷つけることを書いていました」と何気なく、吐露していました。謝るわけでもなく、反省しているわけでもなく、去年の自分を懐かしむかのように語ってくれました。私も前年、苦悶してきたので、彼女が話したときは穏やかに微笑みました。
 不思議なもので、アンケートや感想の時だけ厳しいことを書くのに、しばらくたつと、何事もなかったように振る舞う学生がいます。それで、むしろ、先生の講義が好きでしたと言うのです。それは、一体、何なんでしょう。

 いもむしごんたろうさんが指摘してくれたように、学生たちにとってアンケートなんて、先生に対して、漫才をしかけているののかもしれませんね。それで手加減がわからなくて、平気で傷つけることを書いてしまうのでしょう。

 多くの学生が講義を期待していることがわかってきたので、暑ーい夏を乗り切ろうと勇気がわいてきました。

 

00:45:14 | falcon | comments(0) | TrackBacks

July 15, 2012

『地獄』を見る大学教員の隠微な快楽

 ムフフフ、深夜、ひそかに絵本を開く。

 眼下に繰り広げられる地獄絵巻。

 亡者たちは、三途の川を渡るときには、奪衣婆に衣服をはぎ取られ、閻魔大王の裁可にあう。恐ろしい形相の地獄の鬼たちが、うめく気力さえ萎えた亡者たちをいたぶり、苛み、その体を切り刻む。まるで屠殺場で解体される家畜のようだ。



 今、子育てをする母親たちの間で大ベストセラーとなっている絵本『地獄』を毎夜毎夜、寝る前に読んでいる。千葉県の寺が所蔵している地獄絵に解説を加えた絵本で、東村アキコさんのコミック『ママはテンパリスト』に取り上げられて以来、母親たちが子どもに読み聞かせするために買い求め、幼稚園、保育園でも大評判になっている。一時は品切れになるほどの売れ行きで、ちなみにFalconが5月末に買った時には第28刷になっていた。

 Falconは、別に良心に呵責を感じることは無く、地獄絵を見て、反省もしない。

 むしろ、Falconを苦しめた者たちが地獄に落ちたさまを思い浮かべている。

 嘘をついたり、約束を破ると、釜ゆでにされて、何度も何度も煮られる「かまゆで地獄」に落ちる。串刺しの亡者の姿が生々しい。

 告げ口をしたり、他の人を馬鹿にして、悪口を言ったりした者は、「針地獄」に落ちる。

 「ねえ、誰のことを思い浮かべているの?」
 それは、自分の胸に手を当てて、考えてみれば!

 でも、「針地獄」には、亡者たちに交じって、全身、緑色した鬼が、とんがった岩に突き刺さっている。亡者を責め立てるはずの鬼が一緒になって刺さって、もがいている。なんだか、笑ってしまう。

 人の話を最後まで聞かないで、自分勝手な振る舞いをすると、火のついた車に乗せられて、地獄中を走りまわされる。ところが、この「火の車地獄」は、火のついた車を引っ張っている鬼たちのほうが苦しそうに喘いでいる。乗っている人は熱いかもしれないが、手で目を覆い、嘘泣きしているようで、なんだか楽しそうに見える。火のついた車で地獄見物できるのだから、結構楽しいかもしれない。

 「いい加減にしなさいよ、鬼たちの気も知らないで、茶化していると、あんた、本当に地獄に落ちるわよ」

 いや、もう、この世の地獄にいます。それも、たっぷりと。
 同じ苦しみを何度も何度も味わうならば、そのほうが楽です。減感作効果がありますから、最初は激痛でも、繰り返して苦しむならば、痛みは和らぐものです。次から次へと絶え間なく、別の苦しみが襲ってくるほうが途轍もなく苦しいです。

 自分を苦しめた者の姿を地獄絵に当てはめて、思い浮かべる。何と隠微な快楽でしょう。この世の地獄から逃れられない者が味わうことを許される、唯一の愉楽。

01:42:59 | falcon | comments(0) | TrackBacks