October 13, 2010

『街場のメディア論』ちょっと

 内田樹著『街場のメディア論』を読みました。

 最初から3分の2までは納得できる点も多く、本書に出会えて、「ありがとう」と著者と出版者に感謝したい気になりました。理不尽な、「消費者」ぶった、「弱者」ぶった病院の患者、大学の学生を舌鋒で滅多切りしていますからね。
 あくまでも一部の学生ですが、講義で大切な説明をしているので、居眠りしているところを起こしてあげたら、「いちいち、居眠りぐらいで、注意するな!」と教務課へ訴えに行く、今度は居眠りしているのを放置したら、「大切な説明を聴き逃した。起こしてくれない先生が悪い」と教務課へ訴えに行くのがいます。処置なしです。その行動は、ほとんど病的と言っても過言ではない。
 ある女子大学では「同じことをしていても、私ばっかり、注意されるのは、セクハラだ!あの先生、私に気があるにちがいない」と騒ぎを起こして、非常勤講師を何人も辞めさせたと自慢している学生の立ち話を聴いたことがあります。仕舞には学生の言い分をそのまま保護者までが言いつけに大学へやってきます。
 こういう問題を内田氏には告発してほしい!

 本と著作権をめぐる問題になった途端、一気に疑問が湧きあがりました。

 内田氏は自著が大学の入学試験に活用されることは大歓迎と書いていますが、これは著作権法で著作権が制限されているので、本人が嬉しいかどうかは別の問題と考えてよいでしょう。
 作家とトラブルが生じるのは、入学試験の問題が予備校の問題集に掲載される場合、学習塾や予備校の独自の問題集に作品が無断で使用される場合です。

 内田氏は自分の著作が広く読まれるならば、著作権はどうでもいいと書いています。自分の考えたことが人に知られることは好ましいことであるとも書いています。
 内田氏は、著作権が「表現」を保護することに気が付いているのでしょうか。著作権法では「気持ち・思い」「考え・着想(アイデア)」「知識」「情報」は保護していません。「考え」が保護されてしまったら、教育は行えないし、「情報」が保護されてしまったら、報道機関は存在できません。著作権法で保護しているのは、創作的な表現です。表現の中に込められた「考え」「思い」は保護していません。

 内田氏は、著作権という財産権、それを取り巻く経済的、あるいはビジネス・システムよりも、「ありがとう」と思う気持ち、著者への敬意を大切にしたいと述べていますが、著作権の本質的な論議になっていません。人類の文化的な所産である著作物を経済的な価値で測って財産権=著作権で保障するするなんて、おかしい!と批判する内田氏の気持ちは理解したいと思いますが、職業作家の人たちは著作物を生み出すために、霞を食って生きているわけじゃないので、著作物に対する対価を読者である私たちが支払うのは当然でしょう。
 以前、ベストセラー作家のA氏が、ファンサイトに「古本屋で見つけて買いました」と書き込んだファンに向かって、「古本屋で買って読むなんて、許せない!本屋で買え!」とか書き込んで、ファンたちから顰蹙を買ったことがありました。たしかに大人げない発言で、嘘でもいいから「古本屋で見つけてくれて、ありがとう。大切に読んでくださったのですね」ぐらいのことを書けば、ますます人気が出たと思います。さすがのA氏でも「図書館でタダで借りて読むな」とまでは書けなかったでしょう。しかしながら、A氏の気持ちもわからなくない。たとえ、わずかな著作権料でも得たいという気持ちは、職業作家なら当然ですよ。

 内田氏は大学の先生と言う本業があるから、著作権にこだわる気がしれないと書けるのですよ。Falconも内田氏と似たり寄ったりの存在ですから、本業があるので、自分の著作が知られるならば、わずかな著作権料は頂かなくてもいいかなと思います。でも、本音はせっかくだから、頂けるなら頂きたい、それで喫茶店でコーヒーの一杯が飲めそうだ、出張先のレストランで美味しいものは食べてみたいと思いを巡らします。著作権料で生きているわけではないので、必死になりませんけど。

 でね、内田氏にはマスメディアで話題になっている著作権問題を表面的に捉えないで、深層まで学んでほしいなと思います。そのうえで鋭く論点に切り込んでほしいと思います。


02:14:05 | falcon | comments(0) | TrackBacks