May 11, 2009

坐禅を終えて

 鶴見大学の公開講座の一日坐禅を終えてきた。
 思っていたより、早く時間が過ぎた。

 午前中、所作や諸注意を受けて、般若心経の写経を行った。久しぶりの書道で緊張したが、半紙の下に手本が敷いてあったので、字を間違える心配がなく、落ち着いて書くことができた。書き終えて、導師にならって受講者全員で一斉に般若心経を読んだ。書き終えた経文は観音菩薩の中に納めらるそうだ。経文の最後に氏名と願文を書き込むのだけど、「身体健全」を選んだ。これから夏に向けて、体を鍛えねばならない。

 写経を終えて、境内の諸堂をめぐった。むせ返るような新緑に包まれた伽藍に爽やかな風が吹き抜ける。少し暑さを感じたが、心地よい。約160mの百間廊下は修行僧が磨き上げたので、ツルツルピカピカだ。

 あっという間にお昼になった。精進料理を嗜む。修行僧の精進料理はもっと質素なものらしいが、今回はもてなしの精進料理だ。経文を読んで、ありがたく頂く。取り箸はせずに、器を持って頂くのが礼儀と教えてもらった。そういえば、普段は無作法にも取り箸をしていた。今後は気をつけよう。静かに音を立てずに頂く食事も心地よい。食べ終わった後は器にほうじ茶を注ぎ、香の物(沢庵一切れ)で洗う。それを味噌汁の器に入れて、飲む。箸は少しなめて、包みに納める。

 午後は座禅に取り組む。本格的な座り方は結跏趺坐だが、体が硬いFalconは半跏趺坐で座った。はじめ20分、途中休みを入れて、25分坐禅をした。
 目をつぶらない、半眼にする。目をつぶると雑念が湧きあがるからだ。
 老師が「雑念が湧きあがったら、放っておきなさい。雑念に近寄らないようにしなさい。囚われないようにしなさい」と声を掛けてくれた。Falconはいままで坐禅で雑念を払う、あるいは雑念を起こさないと思っていた。老師の言葉でハッとした。人は誰でも雑念が湧きあげるのは仕方のないことで、湧きあがった雑念を放っておけばよいのだ。これから肝に銘じておこう。
 雑念は湧きあがる、心を静かにすればするほど、あふれ出てくる。明日の仕事、食事の事などなど、こまごまとした雑念は心に散らかる。老師の言葉に従おうとしても、雑念に囚われる。仕方がない、とにかく呼吸に集中して心を落ち着けた。

 一日の最後に老師のお話を聞く。「老師」と言っても、Falconと同じくらいの年齢の方で若々しい。
 「現代人の宗教観の崩壊を嘆かわしく思う」と繰り返しおっしゃっていた。
 それから「最近の若い人には3つの心が掛けている」とおっしゃっていた。つまり「我慢する(忍ぶ)心」「信じる」「許す心」だ。「我慢」というのは、仏教で「慢心(我儘な思い上がった心)」を表すので、正確には耐え忍ぶ心であると、老師は御自分の修行時代のエピソードを交えて説かれた。自分を育ててくれる目上の人から叱られるのであれば、自分の人格を磨く上で大切だ。しかしながら、年上の人でも気まぐれに人の心を弄ぶように叱りつける人がいる。それに耐え忍ぶのは無駄だと思う。次の「信じる心」のように、相手を見極めることが大切だ。老師はむやみに信じるのではなく、真実を見抜いて、信じることが大切だとおっしゃった。耐え忍ぶのも、相手を見極めることが必要なのだろう。
 気まぐれに人の心を弄び、我執に満ちた人の妄言を耐え忍ぶ必要はないだろう。雑念と同じく、放っておくしかない。

 今日は栗の花の香がした。初夏になったんだなあと思った。

 坐禅して栗の花咲き烏啼く 一騎

19:45:33 | falcon | comments(0) | TrackBacks