March 17, 2008

『承香殿の女御』

 森谷明子著『異本源氏物語 千年の黙』の主人公は紫式部(御主)と仕える侍女だけれども、もう一人の影の主人公といえば、堀河院の主、一条天皇の女御だった「承香殿(じょうきょうでん)の女御」藤原元子である。『異本……』を読んだとき、承香殿女御について興味を持ち、角田文衛(←「衛」は本当は旧字体)著『承香殿の女御:復元された源氏物語の世界』(中公新書)を読んだ。現在は絶版で、書店では手に入らない。図書館でも中央館クラスの蔵書数の多い図書館なら、借りることができる。
 一条天皇の後宮には、藤原道隆の娘の定子、後に藤原道長の娘の彰子が入内している。その中にあって、身分も、美しさにおいても、教養にしても、けして引けを取らない、藤原元子は、不幸なことに懐妊後、「水を生んだ」(早期破水)ために、世の期待を裏切り、笑い種にされてしまう。このあたりのことは『異本……』でも詳しく書かれている。
 その後、天皇の寵愛が、権勢を振るった道長の娘の彰子へ移ると、元子は堀河院に住まうようになり、歴史の陰に生きた。しかし、ここで話が終われば、帝の「あまたさぶらひける」女御の一人として歴史に記憶されるだけにすぎなかった。一条天皇崩御の後、源頼定と恋に落ち、元子は父の藤原顕光から怒りを買い、髪の毛を切られ、堀河院を出て頼定とともに暮らすようになる。二人の女の子に恵まれて、後半生は右大臣、左大臣を歴任した父とともに、主に堀河院で暮す。
 元子の波乱に満ちた生涯もさることながら、彼女を取り巻く個性的な人物たちにも興味を引かれる。父の顕光、夫となる頼定は、当代きっての美男子で、特に頼定は光源氏のモデルになってもおかしくないくらいのプレイボーイなのだ。源氏物語のモチーフ、モデルがさまざまに思い浮かぶ。それどころか、「事実は物語よりも奇なり」で、源氏物語を上回る奇想天外なことが起こる。『大鏡』の有名なエピソードだが、道長が、頼定と密通した異母妹の綏子の胸をはだけさせて、本当に妊娠したかどうかを確かめるために乳首をひねったというのは、すさまじい。
 角田氏の著作では、屋敷を伝領することが問題になっている。平安貴族といって、文化面ばかりに目が行きがちであるが、貴族たちは、儀礼を重んじて、和歌を作ったり、恋愛に興じているばかりではない。屋敷の維持や財産の相続、国の農業政策、さらにはこの時期、九州に「刀伊」という異民族の来襲があり、外交問題に揺れたため、政治的難局に立ち向かっていた。
 源氏物語はそれなりに興味深いが、平安貴族といわれた人たちが本当は何を考えて日々を暮らしていたのか、もう少し知りたいと、『承香殿の女御』の読後、思った。

19:45:52 | falcon | comments(0) | TrackBacks