February 15, 2008

「豊かな心」って、何?

 Falconの頭の上に、漬物石のようにのしかかっていること、それは、
 「読書で心を豊かにする」という言説。
 本当に読書で心が豊かになるのでしょうか?
 そもそも、「豊かな心」って、何でしょうか?

 今や、読書は万能薬のように言われている。なにしろ、「子どもの読書活動の推進に関する法律」(平成13年)「文字・活字文化振興法」(平成17年)と、矢継ぎ早に読書に関する法律が制定されて、図書館関係者、特に子どもの読書活動に取り組んできた人たちを大喜びさせている。
 これも一つの考え方を示すので、目くじらを立てずに読んでいただきたい。そうそう、眉に唾をつけるつもりで、読んでもらえれば、助かる。
 どちらも「理念法」で、国民に理念を掲げて、読書を奨励している法律である。
 「子どもの読書活動の推進に関する法律」は、もともとは出版社・書店の側から提案されている。図書館とか、学校は、ついでというか、後から巻き込まれた恰好である。「子ども読書の日」が4月23日なのは、「バレンタイン・デー」が「チョコレートを贈る日」なのにならって、スペインの習慣で「サン・ジョルディの日」で「本を贈る日」というキャンペーンを書店で行っていたが定着しなかった、そこで再度復活させて、決まった。少子化で子どもの本が売れない、そこで子どものいる親たちに本を買ってあげて頂戴!というわけで、子どもの本離れ、活字離れが叫ばれて、ますます注目を浴びる結果になった。
 「文字・活字文化振興法」は、子どもに読書をさせるなら、大人にも読書をさせたい!、本だけでなく、雑誌や新聞の売上も下がっている!、そこで新聞社が中心になって、制定された法律である。なので、図書館、学校は後回しに決まった法律である。

 「読書」をすることは「教養のため」ということで、けして悪いことと思われていない。「立身出世」「末は博士か、大臣か」が(実現できそうもない、はかない、最大の)庶民の夢だった時代から、「読書」は良いことだった。「立身出世」は少なくとも昭和50年代くらいまで、その頃までなら、「課長昇進、おめでとう」と祝えたけれど、今じゃ、仕事増えるし、責任取らされるし、昇進もあまり嬉しくない。価値観が多様化して、直線的な出世コースよりも、異彩を放って「カリスマ」と呼ばれたいと思う人が増えた。だから、「立身出世」のための教養を身につける読書は建前として残っているけど、今は「へーっ」って言われたい雑学を身につける読書になってしまった。「末は博士か、大臣か」これもほとんど死語に近い。博士は、大学院生の濫造で、お金と時間に余裕があれば、庶民でも「買える身分」になった。アメリカでは「売っている」。松本清張さんの推理小説で、教授の座をめぐって、権力闘争が起きて、殺人事件がおきる話があるけれど、今の大学生には、その話は注釈が無いと理解できなくなった。大学教授は、誰でもなれるとは言えないが、稀有なチャンスではない。「博士」の価値が、堕落してはいないが、以前より低くなった。「大臣」は、博士ほど簡単になれないけれど、不正な汚職、失言、重大な責任、マスコミの晒し者を報道で知ると、「庶民の夢」とは言えない。「大臣になったら、大変だなあ」と思うし、年金問題、薬害訴訟問題、米軍基地問題などなど、次々に責任がのしかかり、「バラ色の人生」とは思えない。というわけで、「読書」の先にあった「教養ある人物」がぼやけてしまった。

 となれば、読書で「豊かな心」が得られると言うが、「豊かな心」って一体、何?だ。模索してみる。「豊か」と言うことは、「多いこと」、しかも「役に立つこと」「良いこと」「幸せなこと」が多いことだ。「悪いこと」が多かったら、豊かでない。「幼い頃、両親が離婚しました。小学生のとき、交通事故に遭いました。高校生のとき、失恋して、自殺未遂しました。就職したら、会社は直ぐに倒産。結婚したら、妻に浮気されて離婚しました」と告白されて、「豊かな人生でしたね」と相槌打ったら、告白してた人の涙は逆戻りするだろう。
 じゃあ、「心」は何?だ。「感情」それとも「精神」、「意思」、「思考」?これまで「読書」に関する集会で、「豊かな心を育てよう」というと、途端に会場は多幸感に包まれて、口々に「そう、豊かな心」と呟く声が聞こえてきて、参加者が一体化した。
 命ある物を大切にして、思いやりがあって、人の話は素直に良く聞き、逆境にも耐え、いつも笑顔を絶やさず、正義感にあふれ、勇気を持って決断して、前向きに生きて……こんな子どもが「豊かな心」を持っていると言うのか。Falconには、葬式の弔辞のように聞こえる。事実、自分が死んだら、誰かに述べてもらいたい。
 豊かな感情だったら、どうだろう?悲しみ、怒り、憎しみ、嫉み、妬みが「豊かな」感情にはならないが、何でもHappy!、Glad!、わーぁ、感動した!と生きる人になることが「豊かな」心をもつことなのか。極端すぎると思うかもしれない。でも、数学の微分でも、極大値・極小値を考えると解析できるように、一度、思い切って極端に考えてみる。どう考えても、豊かな感情の持ち主は、付き合いづらいし、世の中の動きに合わないし、理性的な人とは思えない。気に食わないと直ぐカーッと怒って、物をあげるとワアッて喜んで、悲しいことがあるとギャーッて泣いて、嫌なことがあると不機嫌になって、こんな人は遠目に見ているなら良いけど、近寄りたくない。
 結局、読書で導き出される「豊かな心」とは、よくわからない。
 たぶん、つらい勉強、友人に傷つけられることなどから、「読書」が解放してくれるよ、介抱してくれるよ、だから楽しみなよ。コンピュータ・ゲーム、インターネットをしていると「キレル」脳になっちゃうよ。だから本を読んで落ち着きなよ。と、慰めているような呼びかけ、つまり標語として「読書は豊かな心を育てる」と言いたいのだろうと思う。
 じゃあ、読書って、一体、何?
 Falconは、いろいろな目的を持って、本を読めればいいと思う。
 「感動する」ことを目的として本を読むのは、個人的な行為としてなら、問題ないが、これが集団的な行為になったときは怖い。それは「戦争」がはじまるときだから。この論証は長くなりそうだ。後にしよう。

23:55:13 | falcon | comments(0) | TrackBacks

eラーニングは結構楽しい

 eラーニング受講をはじめて3日目、まだ終わらないとボヤキつつも、気合を入れて楽しんでいる。ちょうど、500ページの長編小説を読みはじめて、350ページぐらいまで辿り着き、面白くなりつつも、疲労も感じはじめたところだろうか。山歩きに喩えれば、7合目あたり、もうすぐ頂上だけど、まだ距離あるなあ、もう引き返せないしー、と立ち止まって思案しながら、一休みしているところである。
 大学図書館職員時代に、eラーニングが騒がれはじめた。職員の先輩たちのなかに、こういうのに直ぐ飛びついて、報告書や論文にする人がいて、Falconは「えっ、図書館と関係ないじゃん。別に!」と、某若手女優のようにスネていた。図書館の活動に影響を与えるかもしれないが、図書館のサービス活動を根底から揺さぶるほどの事項ではないと思えたのである。
 実際にeラーニングを受講して、図書館のサービス活動の根幹には関係ない事項だと思う。その考えに変わりはない。けれども、講師の話を聴きながら、いろいろ調べてみたいことも出てくる。普段の大学の講義や講演では、1人の受講者の割り込みで「ちょっと、待った!」なんて中断できないが、eラーニングは講義を受講者の意思で中断できる。トイレ休憩も思いのまま。図書館でチョッと調べたいと思えば、いつでも中断できる。そのときにeラーニングと図書館の関係は良好になる。講師の話を聴きながら、調べごとができて、より深く理解できる。
 10年位前に比べれば、インターネットの技術ははるかに進歩しているし、講義を聴きながら検索も可能だ。今日は、太平洋戦争中の田中義一内閣総辞職の問題が取り上げられたが、インターネットで検索して、Web情報を読み、講師の話を聴いていた。歴史を見る目が養えて、興味深く聴けた。でも、「eラーニングと図書館の関係」を論文にするほどかあと、チョッと馬鹿馬鹿しく思う。
 eラーニングは、アメリカように国土の広い国では、教育の機会均等のためには必要だろう。日本のように国土の狭い国では、需要は全くないとは言えないが、最重要とはいえない。

 まっ、あともう少しなので、がんばって聴こうと思っている。

18:51:58 | falcon | comments(0) | TrackBacks

読書は大切だと思う。Oui,mais...

 今、Falconは職場のパソコンルームに通い、eラーニングのモニターをしている。1日約6時間コンピュータの画面とにらめっこしている。こんなにじっくり人の話を聞くのは、司書講習以来である。自分が1日6時間以上話すことは、自分が講師をしている講習ではザラにあることだけど、自分が長時間聴く立場になることは本当に久しぶりである。
 関心のない講義をずーっと聴くのは苦痛だけど、関心があるので、気分が高揚してくる。今年の冬の厳しい寒さで、季節性の鬱状態だったのだが、おかげで元気が出てきた。

 じゃあ、何を聴いているかというと、「読書」についての講義。

 職場の人に頼み込まれて、「せいぜい2時間ぐらいですよ」という言葉に騙されて安請け合いしてしまったのだが、90分の講義が12回、全部で約18時間の講義なのだ。最初の講義でゲンナリした。(たぶん、大学で講義を受けている学生諸君も、似たような気分になって、講師の先生たちと向き合っているのだろうと想像する。これで、少しは思いやりのある先生になれそう!)日本の古典文学の講義で、まわりくどく説明されたなら、読書と関係するけど、「読書と関係ないじゃん!」と言いたくなった。それでも、日本の古典文学は嫌いじゃない、大好きだったし、古典文法の「から、く、かり、し、き、かる、けれ……」なんて形容詞の活用を聞くうちに、ずるずると引き込まれて、楽しんで聴いていた。約3時間、講師の先生が話される『徒然草』、117段の吉田兼好の友人論(これは読まないと損するぞ!)に大笑いしながら、無常の世に思いを馳せた。
 次がマクルーハンのメディア論を中心にした読書についての講義で、真剣にメモを取りながら聴き入ってしまった。「読書が人生を豊かにするのか」という問いを、「なぜ、読書をしたくないのか」という逆説的な問いから考え直す講義だった。と、言ってしまえば、あまりにも簡単なんだけれども、哲学の先生だけに、定義と論理が複雑に絡み合い、プラトン、聖書、現代の思想家の著作からの引用が炸裂して、講師の先生と、思考の「綱引き」をするように、時を過ごしてしまった。
 とかく、「読書は楽しい」「趣味としての読書」「読書は心を豊かにする」という言説が飛び交っている。講師の先生も、そこは否定していない。Falconも否定する気はない。

 さっき、あるブログで、或る学校司書の活動を否定しているのではないかという文章を目にしたが、以前に書いた記事を誤解していないかな?「学校図書館での読書は、あくまでも学習活動の読書である」と主張しているのであって、或る特定の人物の活動を批判しているのではない。似たようなことを考えていても、単なる好悪だけで、感情的なレベルの誤解をする人はよくいるけどね。兼好さんなら「ゆかしき人かな」と思うかもしれない。Falconは「危うきに近寄らず」だけど。

 で、続きを述べると、「新しい電子メディアが登場する中で、現代の社会で読書がどれだけの価値をもちうるのか」という問題に発展して、電子メディアと本の相克と親和について、講師の先生は語っていた。何だ、かんだ言ったって、「文字」で理解することを知ってしまった人類は、「文字」、意味を持つものに等価して転化しうる「記号」を念頭において理解することに慣れてしまい、身体的な感覚を復活して理解することが億劫になっているという。
 (Falconの考え→)そこの観点から考えると、電子メディアの登場は視覚と聴覚を復活させて、文字以外の「記号」を与えてくれたことになる。ならば、視覚と聴覚、あるいは嗅覚まで、さらに雰囲気、空気の流れを感じる触覚、「空気」を読む感覚まで呼び起こす「ストーリーテリング」「読み聞かせ」は、1人で本に向き合って読む「読書(黙読)」という行為は違う次元の問題に思える。
 この約3時間は、思考の、いや、志向の、いや、至高のバトルだった。闘いの果てに1つの「読書観」に到達できた気がした。

 3回目の講義は、村上春樹の『海辺のカフカ』の読み方。
 村上春樹は、デビュー作を『群像』で読み、ジョン・アーヴィングの書評を雑誌『海』で読んで、Paperbackで『ガープの世界』『ホテル・ニューハンプシャー』を読んで、『熊を放つ』を彼の翻訳で読んで、最近『ふしぎな図書館』を読んだけど、あまり興味を持たなかった作家だった。「Falconの嘘つき!春樹が嫌いじゃない訳ないじゃん」でも、ピンと来なかった。
 だが、講師の先生の話に引き込まれて、『海辺のカフカ』が読みたくなった。主人公の少年が図書館に入り浸ると聞いたからには、読まないわけにいかない。さまざまなテクストの交錯、メタファとイメージ……
 またまた、夕方、近所の図書館に駆け込んで、ページがしわしわになった『海辺のカフカ』を借りた。

01:29:34 | falcon | comments(0) | TrackBacks