January 21, 2008

御用!御用!誤用?「檄を入れる」

 『図書館危機』p.222で、「玄田は檄を入れるように怒鳴った」とありますが、「檄を入れる」は誤用でしょう。
 普通は「檄を飛ばす」と表現します。スポーツ新聞などでは「○○監督が檄を飛ばした」という見出しが見受けられます。「叱咤激励する」という意味で用いられていますが、本来の意味では「手紙を出して、人を集める」という意味です。
 「檄」とは、古代中国、春秋・戦国時代に、役人が人を召集するときに手紙として使った木片(木牘もくとく)のことを意味します。紙が作られる前(製紙法が確立するのは後漢の時代・西暦100年ごろ)は、文字を書き記す道具(メディア)として、竹の細い板(竹簡)や木牘が用いられていました。今でも、「書簡」「書籍」「帳簿」など紙を使ったものを表す漢字に「竹かんむり」がついているのは、古代の中国で書写の道具として竹簡が用いられていた名残です。これは「図書館資料論」「図書および図書館史」で学ぶ事項です。図書館学のテキストにはありませんが、エピソードとして学びます。
 今では「檄」の発音「ゲキ」、「飛ばす」という激しい動きを表す動詞のため、「叱咤激励する」という意味で用いられて、頻度も多いために、誤用が重なり、あながちに間違いともいえなくなりました。
 「檄を入れる」というのは、「喝を入れる」「力(りき)を入れる」の転用のようですね。「手紙として使った木の板をを入れる」じゃ、意味を成しませんしね。たぶん作者は図書館情報学を学んでない、図書館について知らない素人を装うために、あえて誤用したと思います。
 北京オリンピックの今年、スポーツ新聞で「檄を飛ばす」という見出しをたびたび目にするでしょう。漢字の国、中国の人たちに嗤われないようにしたいですね。

14:27:46 | falcon | comments(0) | TrackBacks

大山陵(仁徳天皇陵)は大きかったなあ

 Falconは久しぶりに、正確に言えば十年ぶりですね、大阪府堺市へ行ってきました。前に訪れたときは、O157集団食中毒が起きる前日でしたでした。帰宅して、テレビで大変なことが起きた事を知り、ショックを受けました。どうもFalconが行くところは物騒です。
 寒かったので、あまり観光はできなかったのですが、大阪の四天王寺、千利休の茶室の跡、与謝野晶子の生家などを見て来ました。寺社を巡って祈ると心が安らぎます。
 堺市役所の21階から見た展望は本当に良かった。以前訪れたときは、ここには来なかったので、大山陵をはじめとした古墳群の眺めは最高でした。もう間もなく、この展望ロビーは工事に入るそうなので、1月中に行ったほうが良いでしょう。ちょうど市内の寺社で祭礼などの行事がありますから、いいチャンスでしょう。

 えっ、何でFalconが堺市へわざわざ行ったか?
 まあ、それはそれとして。

 新幹線に乗っている間、『図書館危機』を読みました。
 私の中では、買ってはあったのですが、しばらく封印するつもりで、読むつもりはなかったのです。でも、暇つぶしに読むかあと、思って読みました。
 もう酷評は書くつもりはありませんが、昇進試験のエピソードで、柴田が利用者の子どものことを「ガキ」って言っているのに、やはり違和感が残ります。児童サービスをする図書館職員が、利用者の子どもを「ガキ」なんて言いません。それから、タレントの香田君が自分を育ててくれた、尊敬しているはずの祖父を「ジジイ」って言うくだり、ヒッカカリます。せめて「じいじ」とか、「ジイちゃん」とか言って欲しかったなあ。でも、「ジジイ」という言い方は、有川さんの生まれ故郷・高知では、愛着のある呼称なのかもしれません。全国的には「ジジイ」はあまり良い呼称と思えません。特に東京ではね。
 私の祖父も東京の下町の「床屋」でした。香田君の話はちょっと共感できました。フィクションですからね、「床屋」が「検閲」の対象になるのか、ならないのかは、まともな論議になりませんけど、私の父は(日野出身の新撰組のメンバー)でした。今はしていないでしょうが、Falconが小学校のとき、学校に提出する何かの書類に家族の職業を書き込む欄がありました。職業を父に聞いたら、そのまま答えてくれたので、書いたのです。父も、その職業の呼称に自信を持っていました。ところが母に見つかって、こっぴどく叱られました。尤も、父は会社員として、その仕事をしていましたから、母から「会社員」って書きなさいと命令されました。母から(日野出身の)はみっともないから、絶対に書かないでと言われました。
 Falconは、父の職業で馬鹿にされたことはありません。(Falconには、もっと虐められることがたくさんありましたから)図書館の道に進むときには、父から大反対されて、一時は恨んだこともありましたが、父は世界中の誰よりも尊敬できる人です。Falconが中学生のときに、仕事で片目の視力を失っても、育ててくれた人ですから、尊敬と言うよりも、畏敬ですね。
 そこでね、『図書館危機』で、「盲撃ち」という言葉が出てくるでしょう。もう既にブログで取り上げている人がいるから、蒸し返すつもりはないのですが、やはり気になります。読者の多くは、聴覚で不自由を感じている毬江さんのことを丁寧に描いている有川さんのことだから、差別意識があったとは思えないと、悪い印象では捉えていないでしょう。でも、4巻では意図をはっきり表明している。ですから、無意識に何気なく使ったのではなく、出版界、図書館界への挑発的な意図があったのだと思います。
 たしかに、この言葉で人権団体などの指摘を受けて、出版中止になり、図書館での収集と提供が妨げられるとなれば、図書館の自由が侵害されたことになる。ピノキオ問題(ドリトル先生航海記や、ハリーポッター第2巻問題も含めて)をしっかり踏まえています。挑発的ではあるが、満を持して使ったのでしょう。それだけ深謀遠慮があるとおもえます。この点は脱帽です。
 聴覚で不自由を感じている人は文字を読めるけど、視覚で不自由を感じている人は文字を読めないだろうと思って図ったとしたら、『危機』の最初のエピソードの痴漢と同じだよね。作者の意図、考えとは別に、結果として、そう受け止める読者もいると思う。この言葉は特別支援学校の学校図書館、点字図書館でDAISY(録音図書の一つで、ディスクに録音したもの)に朗読を吹き込むとき、公立図書館でも対面朗読のとき、問題になるなあ。

 この世に言葉の表現があり、徹底した「言葉狩り」を必要以上に行うのは望ましくないし、「図書館の自由」に照らして、資料の収集・提供を積極的に行うことも大切です。この点は作者の考えに賛成します。
 でも、でも、歩き方で不自由を感じている子が体育の時間に「宇宙人みたい」などと言われた時の気持ちをどこまで考えてくれているでしょうか。経験したことのない人は、他人事と受け止めるだろうね。Falconも配慮ができずに困ることはたくさんある。でもさ、そこが人の気持ちを考える作家の想像力じゃないかな。教育者も同じだけどね。

 ノリ、勢い、その場の空気、理屈で、見過ごして欲しくありません。

 これは本当に普通の表現として使ったのでしょうが、「眇める」というのも、差別表現として規制されることもあります。父もふざけて自分のことを「眇め」と言っています。
 平家物語の平忠盛(清盛の父)昇殿のエピソードをご存知なら、判ってくれるネ。

00:08:55 | falcon | comments(0) | TrackBacks