November 05, 2007

ゆく秋に

 鹿児島県出水市に到着した日、少し暖かったからでしょうか、夜、クツワムシが鳴いていました。東京、横浜では、あまり聞いたことない鳴き方だったので、とても珍しく思いました。歌のように、ガチャガチャ耳障りに鳴くのです。エンマコオロギのように、コロコロ、コロコロと鳴くのもいいですが、たまには風変わりな鳴き声に耳を傾けるのもいいでしょう。虫すだく秋ですね。

 もう最近は鳴いていませんが、夕刻、都会の街路樹で鳴き散らかしているのは、アオマツムシです。正確な年代が定め難いのですが、海外から日本にやってきた虫、外来種です。台湾から来たというので、タイワンコオロギ、タイワンマツムシと呼ばれたこともあります。奥本大三郎氏は、『虫の宇宙誌』(新潮文庫)によれば、日本に元からいたのではないかと仮説を述べています。明治・大正のころから、東京で増え始めたようです。

 出水市のクツワムシですが、翌日の夕方には、もう鳴いていませんでした。この日はひんやりしてきたので、鳴かなかったのでしょう。虫は季節の変わりに敏感なんだと思いました。

22:56:00 | falcon | comments(0) | TrackBacks

漱石とケータイ小説の間

 漱石の作品が新聞で読まれて、読者層を獲得したことが、ケータイ小説とよく似ているのは、数日前に書きました。単行本を買って、書斎で読むのではなく、気軽に持ち運べるメディアとしての新聞で読むというのは、ある意味、画期的なことだったと思います。

 しかしながら、今のケータイ小説との違いは、漱石が情景描写や道具立て、筋立てに凝っていることです。『それから』『彼岸過迄』『明暗』を読むと、当時の東京で暮らす中流階級の生活がよく分かる。もちろん、漱石は心理描写にも筆を費やしていますが、登場人物の姿や、部屋の様子などにも気を使って書いています。
 今のケータイ小説とか、ライトノベルとかの文章は、どちらかというと心理描写に重要度があり、情景描写や筋立ては刺身のつまみたいなものでしかない。設定が同時代ならば、テレビや映画でヴィジュアル情報を知っているので、いちいち何を着ていたとか、説明が省かれて、いきなり心理描写へと入り込んでいます。
 漱石の時代はテレビや映画が無いので、いちいち読者に情景と道具立てを説明しなければならなかった。けれども心理描写を書いて、意味も無く情景描写をつけたって「そんなの関係ねぇ」で終わってしまう。そこで漱石は、心理描写と情景描写を微妙に関連付けて、展開しています。登場人物が身に着けている衣服に、人間関係やその後の展開などの意味を込めているのです。
 ライトノベル、ケータイ小説が100年後に読まれないだろうと予測できるのは、心理描写が中心で、その心理が生まれる理由づけが十分でないために、悲しみ、怒りなどの表現だけが際立って、それ以上、解釈できないと思われるからです。つまり、同時代の一部の人たちにしか、実感を味わえない作品だからです。

 翻って考えてみると、漱石は、実にずるいと思います。100年後の私たちを悩まして、困惑の渦中に置いているのですから。困惑させるだけ、意味のあることを書いた作家なのです。

14:38:03 | falcon | comments(0) | TrackBacks