October 29, 2007

読み物、文学作品は大切だと思うけど

 このブログへの反響を読んでいて、結構面白く思いました。
 学校図書館を勉強の場とするのは反対という意見や、文学作品が無い学校図書館は嫌だという意見をいただきました。
 Falconは、学校図書館に「読書材としての読み物」を置くのを反対しているわけでもないし、学校図書館を勉強の場として活用しようと言っているわけでもありません。
 問題は、読み物、文学書ばかりを学校図書館に置くことであり、読書を「好き」とか、「趣味」とかの次元でなく、読解力を身につける学習という視点でとらえ直してほしいと言っているのです。
 Falconは、大学では源氏物語を卒業論文のテーマとして選んだくらい文学好きです。だから、「学校図書館で本好きの子どもを育てたい」という舌足らずで説明不足の言説に耳を傾ける気持ちの余裕はあります。今でも、小説は大好きですから、選り好みせず、読んでいますよ。「読書を趣味にする子どもを育てたい」という人の気持ちも、情緒的は理解できます。
 児童文学作家の方たちは、自分たちの作品の売り上げを伸ばしたいから、読み物を薦めたがる傾向がある。その気持ちはよーく理解できます。肥田美代子先生のお言葉(10月29日読売新聞朝刊)も理解できます。でも、学校図書館は、そればかりになっては困る。すべての教科についての資料があってほしいのです。特に算数・数学、英語、音楽、美術、体育の資料が足らない。これらの資料が少ないから、いつまでたっても、学校図書館は「読書の場」であり、読み聞かせおばさんたちの牙城であり、司書教諭は「国語の先生」が任されて、他の教科の先生が寄り付かない場所に成り果てるのです。

 まっ、最近では、意地になって、情報活用の学習に取り組んで実践報告を発表する人たちもいて、「読書」だけでないという印象を与えようとしているけど、これもどうかと思う。
 (本音を書こうと思うが、ヤメータ!)

 学校図書館の役割、行方が定まらないのは、国がお金を出し渋り、文部科学省が政策方針を決定しないからです。

14:31:27 | falcon | comments(0) | TrackBacks

「朝読書」にお守りをさせないで

1960年代から1970年代まで、「テレビにお守りをさせないで」というスローガン(標語)があったそうだ。
実践している学校と関係者には申し訳ないが、朝読書は子どもをひたすら落ち着かせる手段になり下がっている。本の読み方を教えていないのに、ただ読め!では、読書になっていない。読書にお守りをさせているだけだ。
学校でする読書はただ読むだけでもダメで、感動するのも目的にならない。
読解力を養う指導を伴わなければならない。



12:56:38 | falcon | comments(0) | TrackBacks

学術用語は「学閥用語」?

 最近、いくらかカタカナ表記の外来語が減らそうとする努力が行われている。

 だが、どこの学会でも、そうだけれど、安易に、無闇に、やたらと、カタカナ用語を使いたがる傾向がある。
 たとえば、アベイラビリティ(availability)で、有用性のことだが、学閥信奉者からは「漢語表現はわかりにくい!プン、プン(怒)」と言われてしまう。有用性のほうが「役に立つこと」の意味がわかりやすいし、漢語表現のほうが文字数が少なく、論文でもカッコイイと思うのだが、喧嘩しても始まらないので、折れることにしている。
 アクセシビリティ(accessibilityアクセサビリティの表記が英語の発音に近い)は、日本語に、また漢語表現にすっきりと収まるものが無いので、「ほら、やっぱり、カタカナで良いのよ!」と言われても仕方無い。あえて訳せば、接近しやすさであり、利用しやすさである。ただし、アクセスという語は、外来語として定着しているから、わざわざ、日本語で「接近」「行き方」なんて訳しようが無い。でも、日本語にできる。「身近に存在しやすい」とか、「行きやすい」とか、苦し紛れでも表現できる。学者というのは、難解な理論をわかりやすく、子どもにも説明できて一人前だ。スノビストの学者たちに、タカ・アンド・トシから「欧米か!」とツッコンデほしい。

 「おい、Falconだって、スノビストなんて外来語、使っただろう!このぉ、衒学主義者め!」
 「ゴメンナサイ」

 ユーザビリティ(usablity)に至っては、利便性、有用性という実にわかりやすい漢語表現がある。「利用しやすい」という意味なのに、無理してカタカナにする必要は無いと思う。「利用者の満足度」という意味合いもあるけど、利用者にとって快適かという度合いを表す言葉である。

 情報リテラシー、メディアリテラシー、コンピュータリテラシーなどは、情報活用能力とか、メディアが伝える情報を見抜く力とか、コンピュータ操作能力とか、もう、ちょっと工夫してほしい。
 情報活用能力を一部の学者が使いたがらないのは、文部省がコンピュータを使った情報活用能力として定義したことに由来している。コンピュータだけでなく、図書、雑誌、新聞、テレビ、ラジオなどのあらゆる情報源を使って、情報を活用するスキル(技能)のまとまりなので、情報リテラシーというアメリカ発祥の語を使いたいという主張である。早く言ってしまえば、定義なんか、どうでもよく、日本の文部省を低く見て、アメリカに追従しているだけなのだ。これが日本の学者のイヤラシーところで、スノビスティックというか、ペダンティックなのだ。シーがつくのは、エクスタシーとか、アヤシーとか、胡散臭い。
 それに、メディアという言葉を定義もせずに、やたらと使いたがる。メディアを、ちゃんと定義してから使ってほしい。「情報を伝える手段」と。

 話は変わるが、競走馬の名前は、競馬法で長音符(ー)を含めて、8文字と決まっている。それから、当然、既に登録した馬の名前をつけられないし、「バカ」とか不謹慎な名前はつけてはならない。それでも、「ワナ」「ナゾ」「サヨウナラ」とかユニークな名前を付けている馬主さんもいる。日本の競走馬は8文字だけど、ジャパンカップにやってくる外国馬は、日本語の発音表記に置き換えたときに8文字を越えてしまうことがある。

 何が言いたかったかと言えば、学術用語の外来語は、文字数を制限してほしい。競走馬と同じ8文字は長すぎる。せめて5文字にしてほしい。それなら、使ってやっても良いサ!と思う次第である。

03:10:40 | falcon | comments(1) | TrackBacks