March 27, 2008

『海辺のカフカ』は「女性蔑視」「戦争礼賛」の書か?

 『海辺のカフカ』を読んで以来、村上春樹に関する文芸評論を2冊読みました。
 清水良典著『村上春樹はくせになる』は、村上春樹の長篇小説・中篇小説を中心に論じた評論で、それぞれの作品をわかりやすく解説していて、作品の関連性がつかめて、興味深く読めました。日本近代文学の伝統を打ち破って、新たな小説へ地平を開こうとする村上春樹の指向が読み取れました。
 小森陽一著『村上春樹論:『海辺のカフカ』を精読する』(平凡社新書)を読み終えたばかりですが、うーん、こちらは少し難問です。確かに、小森氏の論理で精読していくと、≪戦争≫≪暴力≫≪レイプ≫を「いたしかたなかったこと」と読者とともに容認して、解消して、<癒し>に導く叙述が見られます。
 ですが、ナカタさんの少年時代に重大な影響を残した岡持先生にしても、またナカタさんにしても、≪戦争≫の被害者であり、そこから戦争への批判が読み取れると思います。作者・村上春樹はムキになって≪戦争≫を真っ向から批判するのではなく、時代の流れの中で風化して、消し去られてゆくものとして、眺めるように距離を取りながら、批判しているのだろうと思います。
 ≪暴力≫にしても、「ジョニー・ウォーカー」による猫殺しをむごたらしく描くことで、スプラッタ・ムービーに引き込むような快感を味あわせながら、読者に嫌悪感を持たせています。前後の脈絡から、「ジョニー・ウォーカー」は肉体的に殺害されて、下巻の最後では、霊魂となっても、少年の分身のカラスに攻撃されていることから、≪暴力≫に対する制裁は小説の中で処理されていて、容認する描き方はしていません。
 少年が姉のように慕う「さくらさん」に対して行う夢の中の≪レイプ≫は、分身のカラスが厳しく非難しているし、「大島さん」に対する「視姦」行為も押し留められています。
 「大島さん」というゲイであることを公言する人物が登場することでも、マイノリティへの良心的なまなざしを作者・村上春樹は持っています。
 なので、必ずしも≪戦争礼賛≫≪女性蔑視≫の書とは言い切れません。Falconは、好戦的なアメリカによる国際秩序の形成に、無差別なテロ事件に、異常な自然現象に、無力・無気力・無関心になってしまう現代人の虚無感を表現しているというのが、『海辺のカフカ』ではないかと思います。その一方で、禁忌である性と暴力に≪夢≫、幻想として関わることのみ許された現代人の怠惰な現実が『海辺のカフカ』だと思います。

 小森氏は、「自衛隊あがりの」長距離トラックの運転手として、ホシノ青年をあまり注目していませんが、彼がナカタさんと出会い、図書館へ赴き、喫茶店のマスターからベートーベンとクラシック音楽の薀蓄を賜って、読書に目覚めて、教養ある大人へと「成長」する過程に注目する必要があると思います。ナカタさんが彼を擁護して(いや、ともに擁護している)、「図書館」という装置へ導き、ホシノ青年がめざましく教養を身につけることは、主人公の少年の未来を微かに暗示していると思います。

 一票だけ、小森氏に賛成票を投じるとしたら、そもそも、この『村上春樹論』が、刊行とほぼ同時に「偉大な物語小説」と絶賛した河合隼雄氏への反発から執筆されたことでしょう。つまり、作者・村上春樹への疑念が出発点でなく、『心のノート』の監修者であり、日本国家のイデオロギー戦略の提言者である河合隼雄氏への申し立てとして『村上春樹論』が著されたのであれば、「いたしかたないこと」とFalconは納得します。
 『心のノート』は巧妙に「思いやり」→「友情」「団結心」→「家族への愛情」→「郷土愛」→「愛国心」へと導き、「自然への崇高なる思い」「伝統文化の継承」とゆがめた形で子供たちの心へ植え付けるものです。『心のノート』を手に取れば、一目瞭然ですが、「戦争反対」は一言も書かれていません。こうした状況で、読書の重要性が説かれて、子供たちを感動させる本を読ませる法律までもが成立したのです。さらに、大人までも読書をするように法律で促されています。
 脱線しますが「こころのノート小学校1・2年生」では、学校の図書室・保健室などの配置図があって、そこで働く人へ「ありがとう」と言おうと書かれてありますが、初版では図書室だけ働く人がいません。改訂版で図書室に人がやっと配置されました。司書教諭の配置が決まっていたのに、全く配慮されていなかったのです。いずれにせよ、「愛国心」が優先されて重視されたものですから、学校の図書室に誰が居ようがどうでもよかったのです。
 「食育」が重視されるのも、戦場でへこたれない体力を身につけるため、「規則正しい生活を身につけると学力が上がる」と喧伝されるのも、軍隊生活に馴染むようにするため、体力が重視されるのは言うまでもないことで、「読書」では「感動」する物語を読ませることが、美しい国・日本の国家戦略なのです。「読み聞かせ」で話を静かにおとなしく聞くことが大切で、物語を深く考えて「どうしてなのか」なんて子供は考えてはいけないように、国は仕向けています。「総合的な学習」は、国策へ疑念を持つことになるので、縮小されるのです。そもそも、「総合的な学習」を行うための条件づくりがないまま、開始したことが、大失敗の要因です。

 となると、小森氏のねらいは、村上春樹の『海辺のカフカ』を巧みに調理しながら、河合隼雄氏をとっちめることだったのでしょう。

 それにしても、『海辺のカフカ』とは大違いに、≪戦争≫を軽軽しく扱い、礼賛して、女性を蔑視する小説がもてはやされる時代になりました。小森先生、『×××戦争』を、どのようにお考えになりますか?

23:21:31 | falcon | comments(0) | TrackBacks

March 24, 2008

『インターネットの扉』

 昨日も今日もアラブ映画祭2008で、映画を観てきた。
 昨日はチュニジアの映画監督のドキュメンタリーで『VHSカフルーシャ〜アラブのターザンを探して』を見た。チュニジアの中南部の観光都市スーサ(スース)近郊で、塗装工を営むカフルーシャ監督が『ターザンを探して』というビデオ映画を製作する過程を撮影している。どこまでが演技なのか、よくわからないが、妙な面白味、おかしみを醸し出している。チュニジアの町並みが懐かしかった。
 スーサ(スース)は、チュニジア第二の規模の町(最近はスファックスのほうが栄えているかもしれない)で、初めてチュニジアへ行ったとき、立寄った。あまり目立った遺跡はないが、観光客が多い町だ。
 今日見たのは、アルジェリア映画『インターネットの扉』。あまり期待しないで見ていたのだが、面白かった。首都アルジェに住む兄弟が主人公で、弟がインターネットのチャットで知り合ったフランスの女性が一週間だけ訪ねてくるところから物語が始まる。彼女を出迎える資金を用意するために、兄弟は地元の闇の組織からお金を調達するのだが、その条件が「闘羊」で負けること。兄が飼っている雄羊(これがジャポネ日本人という名前!)が闘羊のチャンピオンで、負けるわけない。つまり、八百長をしろと強要される。フランスからやってきた彼女はサンパチックな美女だけど、どこかしらミステリアス。映し出されるアルジェの町は魅力的だ。Falconは一生のうち一度はアルジェへ行きたいと思っている。最近はテロ事件も少なくなってきたといわれているが、まだまだ不安は拭えない。
 アルジェリアはフランスの植民地だったので、独立後、フランス語を排斥してアラビア語を使っていると聞いていたのだが、映画ではフランス語が使われている。兄弟はフランスに住んでいたのだが、アルジェリアへ移住してきた経緯があるので、フランス語を用いているのだろう。

 驚いたのが、主人公の弟をライ・ミュージックのアイドル歌手フォーデル君が演じていたことです。彼もねびてきて、メタボ気味の体を晒しています。カラオケ・バーの場面で披露する歌声は流石、歌手!ですね。ラシッド・タハとハレドと一緒にコンサートした時のCDを持っていますが、ジャケットの写真は「少年」そのものです。ライ・ミュージックについては、金沢大学の粕谷先生のサイトを見てください。

 両方の映画とも、アルコールを飲むシーンが頻繁に出てくる。チュニジアも、アルジェリアもムスリムの国(イスラムが信仰されている国)なので、戒律で本来アルコールは飲めないが、いわゆるマグレブ諸国では、戒律が緩やかで、ビールも、ワインも飲める。フランスではパスティス(かつてのアブサンの代わりとして飲まれている)、ギリシアではウーゾ、トルコではラクという、水を注ぐと濁る蒸留酒(ラクは水を注ぐと白濁することから「獅子の乳」ともいう)も飲むことができる。泥酔を戒めているが、町では酔いしれている人は多い。

21:15:37 | falcon | comments(0) | TrackBacks

March 21, 2008

佃島春景

 先日、都内の某所に用事があったので出かけて、帰りに夕方、佃島まで歩いた。隅田川の川面は、ミカン色に輝いていた。
 佃島は、亡くなった母方の祖父が「床屋」を営業していた。正確に言うと祖父が住んでいたのは佃2丁目で、昔からの「佃島」は住吉神社のある佃1丁目である。
 幼い頃、母に連れられて、佃島に行った記憶がある。
 今は再開発されて、かつての石川島、佃2丁目・佃3丁目は高層マンションが屹立して、昔の面影は全く無い。とても東京とは思えない。まるで外国である。母が通った佃小学校・佃中学校もすっかり近代化されていた。このあたりのマンションには、作家の石田衣良さんが住んでいる。ここを舞台にした小説『4TEEN』がある。最初のエピソードに「月島図書館」が登場する。
 石川島は、松平定信の「寛政の改革」の時代、人足寄せ場が置かれたことで有名だ。その人足寄せ場の監督をしていたのが、『鬼平犯科帳』でお馴染みの長谷川平蔵だったというのは、先日、NHK総合『そのとき歴史が動いた』で知った。鬼の平蔵どころか、仏の平蔵で、清廉潔白で、失業者対策に乗り出した、現在でもいて欲しい役人の鑑だ。
 小学校の脇道を通り抜けて、佃1丁目へ向かった。夕闇が迫る中、何だかハラハラした。幼い頃の記憶のとおりに留められているのか、急に心配になった。勿論、テレビで佃1丁目が映し出されて、昔の面影を留めているというのは知っているのだが、実際に行ってみたら違っていたのではガッカリだ。
 佃1丁目は、昔のままだった。と言っても、立て替えている家は多かった。佃島は、関東大震災でも、東京大空襲でも延焼しなかったので、古い家並みが残った。ペルー沖の大地震の津波の影響が少なかったとも言われている。昭和50年代までは、佃島、月島周辺は、大正から昭和初期に築造された家が多く、東京らしい路地が残っていた。
 佃島は、徳川家康が江戸へやってきたときに、摂津から漁民たちを連れてきて住まわせた。江戸前の海で取れた雑魚を醤油で煮しめたのが佃煮だ。佃一丁目にある住吉神社は、大阪の住吉大社の御霊を勧請した。住吉神社の鳥居の扁額は陶器でできていて、有栖川宮幟仁親王の揮毫だった。
 佃島で佃煮を買い求め、月島まで歩いて、地下鉄に乗って帰った。もんじゃ焼きを食べて帰ればよかったと、思い返している。

20:29:42 | falcon | comments(0) | TrackBacks

書店コミック

 図書館小説があるなら、書店小説・書店コミックもある。
 書店が舞台となるコミックで一世を風靡した久世番子さんのコミック『配達あかずきん:成風堂書店事件メモ』が書店に並んでいた。早速、即、買い。
 『暴れん坊本屋さん』のような迫力は感じられないけど、しみじみとした味わいがあり、書店はドラマの宝庫と思えてくる。このコミックは、前からFalconが気になっていた、大崎梢さんの小説『配達あかずきん』(東京創元社)を原作として描かれたものだ。番子さんも、大崎さんも書店勤務経験者だけあって、裏事情を良く知った上で描き込んでいる。いくらフィクションとは言え、経験者と当事者には強みがある。

 番子さんのコミックから離れるけど、所詮、部外者は部外者の目で、「フィクション」を荒唐無稽に描くのだろう。それも仕様が無いか(諦めの嘆息)。部外者の目もあって、いろいろな見方ができる。それを受け入れながら、正しい方向へ導いていくのが専門家の役目だ。

 『配達あかずきん』でも、『あさきゆめみし』と源氏物語が登場する。どんなお話になるのかは、読んでからのお楽しみ。推理小説、ミステリーなので、プロットは明かさないでおこう。

 番子さんは、本屋さんを辞めて、漫画家に専念しているらしい。連載中の作品も数多くあるようなので、期待したい。4月にはウンポコ・エッセイ・コミックス『番線』が刊行されるようだ。今年の4月は気になることが多すぎる!……えっ、何か?って、ええーと、まあ、それは、宜しいじゃないですか。期待のふくらむ春ですね。

17:32:04 | falcon | comments(0) | TrackBacks

March 19, 2008

アラブ映画祭2008と青山周辺の図書館

 東京・青山にある草月ホールでアラブ映画祭2008が開催されていた(3月23日から25日までは、東京ドイツ文化センターで上映)。チュニジアの映画が上映されていたので見に行った。面白かった。

 草月ホールは青山通りに面した草月会館にある。高橋是清公園に隣接している。
 この周辺にはE・H・ノーマン図書館(カナダ大使館内)と東京ドイツ文化センターの図書館がある。
 E・H・ノーマン図書館は、カナダ大使館の図書館だったが、大使館の改装とともに名称を変更して開館された。カナダに関する情報・図書が充実。英語・フランス語(二言語ともカナダの公用語)の図書が約90%で、日本語の本が約10%。児童書なども多い。図書の分類がLC(アメリカ議会図書館)の分類なので、日本十進分類法になれていると探しにくい。
 東京ドイツ文化センターは、青山通りから草月会館と高橋是清公園の間の脇道へ折れて、閑静な住宅地を行くと左手に見える。ドイツ・インスチュートというプレートがあるのでわかる。ここの図書館は、かつてゲーテ研究の施設であったので、ドイツ全般というよりは、ドイツ文学に関する資料が充実している。

 東京メトロ銀座線・半蔵門線と都営大江戸線の青山一丁目駅から歩いたほうが近い。

20:23:51 | falcon | comments(0) | TrackBacks